みことばの糧50
何のために生きるか ~本当に必要なもののために生きる~
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。ヨハネ6:27
私たち人間が生きて行く上で、最も必要な糧は何か。ヨハネの福音書は、このいのちの糧について、とくに教えています。私たちが日々口から取り入れる食事は、勿論なくては生きていけません。ですから、そのために働く必要があります。しかし、食事だけで生きていけるかというと、それも違います。もし、口から入る食糧だけで生きるのであれば、動物や虫と何ら変わりません。人が人として生きていくために、必要なものは何か。聖書は、とくに人間はこのいのちの糧について教えています。そのいのちの糧を得るために働く、行動するとはどういうことか。ヨハネの福音書は、イエスを追い求めた群衆と弟子たちの違いを通して、私たちにそのことを教えてくれています。
1、パンを求めてイエスを追った群衆
この時、多くの群衆たちはイエスを追いかけていました。イエスについて行く、イエスを追い求めるという点では、弟子たちと群衆たちの行動には共通点がありました。しかし、群衆たちの追いかけ方は、弟子とはまったく違いました。
イエスの弟子たちが小舟でカペナウムに行ったのですが、イエスはそこに乗ってはおらず、群衆はイエスを見失いました。そこで、弟子たちを追いかければイエスに落ち合えると考え、自分たちも小舟に乗って弟子たちの後を追ったのでした。ところがカペナウムに着くと、イエスはすでにそこにおられました。驚いた群衆は、、「先生、いつここにおいでになったのですか」(25節)とイエスに問います。この問に対するイエスの答えが、冒頭の御言葉です。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです」(27節)。こう答えられたのです。
というのは、群衆たちはイエスにパンを期待して追いかけていたからです。彼らはつい前日、イエスがたった五つのパンを裂いて、配ったことで、空腹だった自分たちが満腹したという経験をしました。そこには、男性だけで五千人もいたのですが、たった五つのパンから出てきたパン切れで、彼らすべての必要を満たした上、なお大かごで12かごも余った。それを身をもって経験した彼らは、イエスこそ救い主だと信じ、イエスを「王にするために連れて行こう」(15節)としたほどでした。当時のユダヤ人は、イザヤ25:6の解釈から、来たるべき救い主は宴会によって自分たちを満ち足らせてくれる方だと信じ、期待していたからです。パンで満腹した彼らは、イエスこそ、このイザヤ25:6に預言されている救い主だと信じ、追いかけたのです。
確かに彼らは、救い主を追いかけました。しかし、その目的は「なくなってしまう食べ物のため」でした。しかし、「なくなってしまう食べ物」は、人に本当のいのちを与える事はできません。肉体の必要は満たしますが、それでもやがて人は死んでしまいます。しかし「人の子」イエスが与える「食べ物」は、そのような糧ではありません。「永遠のいのちに至る食べ物」なのです。パンは、普通の人間でも与えることができます。その食糧を買うために、私たちは働きます。しかし、「永遠のいのちに至る食べ物」を与えることが出来るのは、「人の子」イエスだけです。彼らは、イエスを追い求めました。しかし、「永遠のいのちに至る食べ物」を得るためではなかったのです。救い主に本当に期待すべきは、「永遠のいのちに至る食べ物」です。「永遠のいのちに至る食べ物」を得るためにこそ、イエスを追い求めなければならない。それで「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」とイエスは言われたのです。
2、「永遠のいのちに至る食べ物のために働」いていた弟子たち
イエスを追いかけるという意味では、弟子たちこそいつもイエスの後に従っていた人たちでした。そして、彼らこそ「永遠のいのちを持って」いる人たちだと言います(47節)。彼らこそ、「永遠のいのちに至る食べ物のために働」いていた人たちだったのです(27節)。6章の後半を見ますと、人に「永遠のいのち」を与えるのは、キリストの十字架であることが示唆されています(55~56節)。確かにキリストの十字架は、私たちの罪が赦されるために必要不可欠です。人間は、アダムとエバが罪を犯して以来、この「永遠のいのち」を失いました。ですから、この「永遠のいのち」が回復されるためには、罪の赦しがどうしても必要だからです。けれども、47節で「信じる者は永遠のいのちを持っています」とも言っています。つまり、イエスを信じている者は、十字架とよみがえりが実現していない今でも、「永遠のいのちを持って」いると言うのです。この事実は、4章のサマリア人の女性がイエスを信じたときにも示されました(4:14, 28等)。彼女は、イエスが「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と語られた言葉を信じ、信じたその時に、人目を忍びながら水を汲みに行っていた彼女が、「自分の水がめを置いたまま町へ行き」喜びを伝える者と変えられました(4:28)。イエスに「永遠のいのちに至る食べ物のため」に信じ、従う人は、すでに「永遠のいのちを持って」いたことを聖書は伝えているのです。
3、永遠のいのちを持っていた弟子たちの苦難と幸い
では、「永遠のいのちを持って」いた弟子たちには、どのような違いがあったのでしょうか。弟子たちもまた、群衆と同じように小舟に乗ってガリラヤ湖を渡りました。しかし、その小舟にはイエスが同乗せず、彼らだけの旅路でした。イエスの弟子となっていたのに、イエスと離ればなれでした。さらに、彼らは群衆たちとは違い、夜中に「強風」(18節)に見舞われて、いのちを落とすかも知れないほどの危険な目に遭いました。ガリラヤ湖は、山地に挟まれた谷あいにあり、時折危険な強風が山から吹き下ろすことがありました。日本でも琵琶湖で比良八荒と呼ばれる危険な風が吹くことがありますが、それと同じような原理で起きる強風です。一見、イエスを信じ、従っている弟子たちの方が不幸な目に遭っているように見えます。同じように今もイエスを信じている人は、苦しみに遭わないとか、常に喜んでいられるかというとそうではありません。イエス・キリストを信じていても、苦しみや危険を経験します。ときに、信じていない人よりも厳しい経験をするほどです。
しかし、そのような彼らこそ、「永遠のいのちに至る食べ物のために働」いている人たちでした。彼らは確かに恐ろしく危険な目に遭いました。しかし、その嵐にあえぐ最中にイエスは、彼らのところに来てくださいました。人間がいるはずのない、湖の真ん中にもイエスは来て、彼らの舟に乗ってくださったのです。そして、彼らが「イエスを喜んで舟に迎え」ると「舟はすぐに目的地に着いた」のです(21節)。彼らは、どれ程強風が吹き荒れても、いのちの危険にさらされても、向かい風に悩まされても、イエスがともにいてくださるならば、必ず「目的地に着」ける。その経験をしたのです。これは「なくなってしまう食べ物のため」だけを求めてイエスを追いかけた群衆とはまったく違う経験、生き方でした。イエスは、私たちに生きる意味を与え、「目的地」を示し、その「目的地」に確実に着かせてくださる方なのです(ピリピ3:12)。このようにイエスを救い主として「信じ」(29節)、その御言葉に生きることこそ、「永遠のいのちに至る食べ物のために働」くことです。この「目的地」と目的地に着かせるための助け、これこそ人間が人間として生きて行くのに、なくてはならない糧なのです。人は目的なしに生きることは出来ません。神は、私たち一人一人に大切な目的と役割を与えて、つくってくださいました。その目的と役割に生きてこそ、人は人として生きて行くことが出来ます。イエス・キリストこそ、私に、あなたにこの目的と役割を与え、それを全うさせてくださる方なのです。私たちは、このようなイエス・キリストの救い、助けに期待すべきなのです。「永遠のいのちに至る食べ物のために」イエスに期待し、追い求め、従って行く。その人こそ、本当にいのちを輝かせ、本来の人生を生き、永遠のいのちに生きている人なのです。
イエス・キリストこそ、私たちに生きる意味・目的を与え、その目的をまっとうさせてくださる方です。そのようにイエスを信じて頂きたいのです。それは決して安易な道ではありません。けれども、そこにこそあなたが輝いて生きる道があります。そこにこそ、人が人として生きる、いのちの道があります。
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