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みことばの糧52

2023年7月2日

いのちの糧 ―人が人として生きて行くためのすべてがここにある―

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネ6:35

 人が生きていく上で、口から入る食糧は、なくてはならない重要なものです。この糧を考える時、一食一食をどう得るかを考えるより、糧を得るための安定した仕事を得ることの方が重要です。しかし、人間が生きて行くために本当に必要なものは、口から入る食糧だけではありません。いのちの糧が必要です。そして、このいのちの糧もまた、日々必要な糧よりも、日々のいのちの糧を確実に満たす存在を求める必要があります。人間は、食物だけでなく、心、人間関係、生きる意味、目的、役割、存在価値、何をどう選択するか等さまざまなものを必要としています。そのすべてを、必要な時、必要な方法で満たすことのできる方。その方こそ、「わたしがいのちのパン」と言われる、イエス・キリストなのです。しかし、人はしばしば、その必要を目先のもので満たそうとしがちです。

1、目先のものに捕らわれてしまう問題

 人はしばしば、目の前の出来事に一喜一憂してしまいます。目先のものに振り回されてしまいます。例えば、子どものうちは、今日の食事やおやつが何か、自分の好きなものか、量が多いか少ないか、そのようなことに関心が向きます。けれども、本当に重要なのは、その食事を得るために働いてくれる人。子どもの健康や成長を考えて、栄養バランスを考え、献立を考え、調理してくれる人。疲れや体調、好みなどを考慮して、時には好きな者でも控え、時には、精一杯ご馳走してくれる。そのような親の存在です。しかし、素晴らしい親がいる家庭に育ったとしても、子どもは親のありがたみよりも、目の前のものにとらわれてしまうことがしばしばです。

 しかし、これは何も子どもに限ったことではありません。私たちも、しばしば目先のこと、自分の心が満たされるか、願いが満たされるかばかりにとらわれてしまいます。そして、私たちに何が必要かを誰よりもよく知り、心配し、折りにかなって与えようとしてくださる方に目を向けないのです。

 イエス・キリストが来られた当時のユダヤ人もそうでした。彼らは、イエスがパンを配って、満腹したその出来事だけにとらわれ、イエスを追いかけました。それだけではありません。旧約聖書の時代、彼らの先祖はエジプトから脱出した後の四〇年間、荒野で神に養われました。その時に、マナという食物が荒野に現れ、何もない荒野で四〇年間飢え死にすることなく、生き続けることができました。しかし、彼らは『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と口では言いつつ、モーセがマナを与えたかのように勘違いしていました(31~32節)。その方が、自分たちユダヤ民族の優位性を感じられたからです。また、マナという食べ物自体を重視していました。しかし、本当に重要だったのは、イエスを遣わされた神が、彼らを養われたということでした(参考32, 27, 29節)。

 実際、マナはとても特殊な与えられ方をしました。力のある人が、弱い人よりも得をしようと急いでたくさん集めても、一人分しか集められませんでした。逆に、まじめに働いても、人より不器用で、遅くしか集められない人でも、ちゃんと一日一人分集めることができました(出エジプト16:16~18節)。彼らはマナを通して、神が公平な方であることを学んだのです。また、隣人を思いやる生き方を学ぶことができたのです。また、神の言葉に従う時に、必ず必要が満たされることも経験しました。彼らは、マナを通して、神との信頼関係を構築し、また隣人を愛して生きる。マナは、肉体的必要を満たすだけでなく、彼らの心、人としての生き方、幸いな人間関係のあり方、そのすべてを満たすものだったのです。そして、それを彼らに与え、実現したのは神ご自身でした。そこにこそ目を留めなければならなかった。けれども、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖こそ、マナを与えたモーセ、またマナを食べた民族、そのように勝手な誇りを持ってしまいました。マナの物質的な価値にしか目を留めず、自己中心的な誇りにしかならなかったのです。そのような彼らは、救い主が目の前に現れても、その価値を理解出来ませんでした。彼らの見ている方向、求めるものがずれていたからです。

2、私たちのいのちに全責任を負ってくださる方

 ですから、いのちの糧というときに、私たちが最も考えなければならないのは、その時その時必要な個別のものを追い求めることでありません。それらすべてを私たちに与えることのできる方を追い求めることです。必要なものをすべてご存じであり、私たちを誰よりも理解し、そして、その時その時の必要に応じて、私たちにもっとも必要なものを与えてくださる方、その方こそ神がお遣わしになったイエスでした。

 ですから、イエスは「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」といった後、37節でこう言われました。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」。つまり、イエスを救い主と信じ、イエスを求めて来る人を「外」ではなく「内」にいる人として、常に責任を負ってくださるということです。聖書は、救い主をしばしば羊飼いに喩えます(ヨハネ10章等)。羊飼いは、自分の囲いにいる羊のいのちを常に心配します。えさ場に連れて行き、水飲み場につれて行き、ときにオオカミや盗人から、いのちをかけて羊を守ります。イエスは、そのように信じる者のいのちのために、すべての責任を負ってくださるのです。さらに、40節でこう言われます。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」。つまり、イエスが信じる者のいのちを守ってくださるのは、私たちが今の寿命を全うするまでではありません。肉体の死を超えてなお、永遠に至るまで私たちのいのちに責任を負ってくださる。この方こそ、私たちが人として生きてくために、最も必要な方なのです。最も追い求めるべき方なのです。

3、飢え渇きつつ最も重要な必要が満たされる

 ですから「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」というのは、まったく飢え渇きを感じないということではありません。実際、クリスチャンでもある意味で飢え渇きます。使徒であったパウロでさえ、ある意味で常に飢え渇いていたのです(ローマ8:23~25、ピリピ3:10~12等)。神の御心を行い自分と、行いきれない自分のギャップに苦しんでいたからです。しかし、その飢え渇きは、決して失望をもたらすような、またいのちの危険をもたらすような渇きではありませんでした。なぜなら、どれだけ自分の足らなさ、汚れ、弱さを示されても、イエス・キリストが私の義となってくださったからです。

 イエス・キリストを信じている者は、このように飢え渇きと満たしを併せ持っています。パウロはⅡコリント6:9~10でこう言っています。「人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」

 出エジプトの時も、荒野で懲らしめられ、食べ物に飢えているようで、食に困ることは決してありませんでした。6:18でもイエスの命令で湖を渡り、強風で死にかけましたが、死ぬことなく目的地にたどり着きました。イエスご自身が私たちの主となってくださるならば、どのような問題の中でも、必ず必要な助けを得るのです。確かに苦難を通るかも知れません。けれども、この世に生を受けた目的を果たす生き方が出来るのです。そして、このように最善の時に、最善の方法でイエス・キリストが私の必要を満たしてくださると知る時、感情的にも喜びに満たされます。むしろ、問題が起きているのに平気でいられたり、自分に問題を抱えているのに飢え渇かない方が危険な事です。良い事への飢え渇きは、私たちを成長させ、きよめる力です(参考マタイ5:3以降)。

 刹那的な、物質的な、感情的な満たしだけを求めている人にとって、キリストは何ももたらさない、小さな存在に見えるでしょう。けれども、このイエスご自身を信じ、イエス・キリストを持つとき、私たちはすべての必要を満たす、救い主を得るのです。その方は、ご自分のいのちを捨ててまで、私たちのいのちを心配し、必要を満たしてくださる方です。そして、永遠に至るまで、私たちのいのちを支え、豊かに満たし、保障してくださる方です。この方こそ、あなたのいのちに最も必要な、「いのちのパン」なのです。この方を信じても、様々な困難があり、また飢え渇きも覚えるでしょう。けれども、私にとって、あなたにとって最も必要な知恵、力、愛、判断力、助け、導き、弁護、そのすべてを最善の時に、最善の方法で与えてくださいます。私たちの存在価値が最も活かされる方法で。

 ですから、その場限りの、感情や助け、物質的な満たし、表面的な解決策に振り回されるのではなく、いのちの源である、このイエスご自身を求め手頂きたいのです。信じておられる方は、イエスご自身を頂いていることに喜びと平安を見出していただきたいのです。