みことばの糧71
あわれむ者は幸い ~聖書の教える「あわれみ」の尊さと難しさ~
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。マタイ5:7
この言葉を聞いて、本当にここに幸いがあると思える人は少ないのではないでしょうか。その理由は、恐らくほとんどの人は、「あわれみ」という言葉を嫌うからです。とくにあわれみを受けるということを嫌います。それは、人間の「あわれみ」は、しばしば言葉だけであり、その人の価値を低く見てしまうからではないでしょうか。しかし、聖書が語る神の「あわれみ」は、人間のあわれみとは大きく異なります。そして、聖書はこのあわれみの心こそ、すべての人に必要であり、神の「あわれみ」がなけ人は救われないことを教えています。たとえ、どれ程人格的に優れ、悩みもない人であってもです。私自身、神の「あわれみ」を受けることなしに、生きることはできません。また、この「あわれみ」の心がなければ、人間関係も不公平で潤いのないものになっていくでしょう。そして、すべての人が聖書の教える「あわれみ深い」心を持つところにこそ、本当の幸いがあります。
1、「あわれみ」とは契約に忠実であること
聖書に教えられている神の「あわれみ」の重要な一側面は、契約・約束に忠実であることです。日本人の私たちからすれば、契約・約束に忠実であることと「あわれみ」は、まったく結びつかないように思えます。しかし実は、旧約聖書で「あわれみ」と訳される「ヘセド」という言葉は、主にこの意味を持ちます。これを見るだけでも、私たちが考えるあわれみと、聖書のあわれみ、神のあわれみがいかに異なるかがよくわかります。
そして、旧約聖書における神のイスラエルに対するお取り扱いを見ると、確かに契約に対する忠実さが、あわれみと結びつくことが具体的に伝わってきます。イスラエルの民は長い歴史の中で、神との契約を何度も何度も破ってきました。彼らの罪に対して、神は何度も警告し、怒り、時に厳しい刑罰を与えました。それでもなお、神は決して彼らを見捨てることなく、愛し続けられたのです。その愛の一例が、エレミヤ31:3に記されています。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛(ヘセド)を尽くし続けた」。当時イスラエル南王国は、神に対して罪に罪を重ね、彼らは神からの厳しい罰を受けていました。その時に、神が語られたのがこの言葉です。正しい神としては、彼らを厳しく罰しなければならず、怒りをもって臨まなければならない。それでもなお、神はアブラハムへの契約のゆえに、彼らを愛し続けられたのです。本人たちの態度や行動からすれば、愛される資格を失っていました。それでもなお、約束のゆえに決して見捨てず、愛し続ける。これが神の「あわれみ」なのです。
ですから、感情だけで人を愛したり、かわいそうに思ったりするのは、「あわれみ」ではありません。愛せる理由を相手がすべて失ったとしても、それでも愛し続ける。それが「あわれみ」なのです。
2、神の「あわれみ」は行動的
さらに、聖書の「あわれみ」は、単なる言葉や態度ではなく、行動的です。ヤコブ2:13で語られている「あわれみ」は、この世の富や身分によって差別せず、同じように敬意をもって受け入れることを言っています(2:1~7)。また、実際に困窮している兄弟姉妹のために言葉だけをかけるのではなく、実際に必要なものを差し出すことを言っています(2:14~16)。このように聖書の言う「あわれみ」とは、実際にその人の立場に立ち、心を痛め、言葉よりも行動をもって、その人の必要に応える。そのような態度を言うのです。
神は、まさにこのような意味であわれみ深い方です。だからこそ、聖書の律法に照らせば罪に定められるしかない者のためにも、救いの道を開いてくださったのです。罪に対して最も怒られるお方が、その怒るべき相手を愛してくださったのです。その罪のゆるしのために、ご自分の御子をさえ差し出し、十字架に架けてくださったのです。イエス・キリストも、私たちを愛するというとき、言葉だけでなく行いで示してくださいました。どれ程疲れていても、ご自分の所に来る人を決して見捨てることなく、そして、私たちの身代わりのために十字架にまで架かってくださったのです。聖書によれば救い主は、世を裁き、刑罰を与えるために来るはずでした(マラキ4:4、マタイ3:11~12等)。しかし、キリストは人を罰する前に、ご自分が人が受けるべき刑罰を受けて、私たちを救う道を開いてくださったのです。救い主は行動をもって愛してくださる。身代わりなって苦しんでくださる。これが、救い主の「あわれみ」なのです。
そして、この保障のために神は私の罪の身代わりとして、あなたの罪の身代わりとしてイエス・キリストを十字架に架けてくださったのです(Ⅰペテロ2:24)。
3、神のあわれみを受けた者だけが「あわれみ」を知る
今まで見て来たように神の「あわれみ」は、人間のあわれみとはまったく異なります。人間の愛は、しばしば移ろいやすく、自己中心的で不安定ですが、神の「あわれみ」は異なります。神が一旦、ご自分のものにすると約束されたら、永遠に見捨てることなく、行動をもって愛してくださる。これが「あわれみ」なのです。このような「あわれみ」は、私たち人間には、とても持ち得ません。聖書は、「あわれみ深い者は幸いです」と言いますが、私たち人間にとってこの「幸い」は、途方もなく厳しい条件なのです。しかし、それでもこの「あわれみ」の心を持ちたいと願うならば、その人こそ、マタイ5:3に語れていた「心の貧しい人」です。「心の貧しい人は幸い」なのです。
そのように自分の心に「あわれみ」が足らないことを自覚する人こそ、本当の意味で人を愛せるようになります。自分は愛せると思っている人の愛ほど高慢なものはありません。だからこそ、人間のあわれみは非常に醜いものとなるのです。しかし、自分の弱さを知っている人、愛の足らなさを自覚している人こそ、本当に相手の立場になって考えることができるようになります。
さらに、イエス・キリストの救いを受けいれるならば、その人は自分に「あわれみ」の心がなくとも、神の「あわれみ」を経験します。聖書を通して自分の心を点検するときに、私たちは自分の心がどれほど醜く、自己中心的で、弱いものかを嫌と言うほど示されます。とくにマタイ5~7章で教えられているいわゆる山上の説教を基準にすれば、どれ程自分が罪深いかがわかります。しかし、イエス・キリストはそのような者のためにいのちまで捨てて、愛してくださったのです。そして、生涯にわたり愛し続けてくださるのです。自分がどれ程問題を抱えてもです。そして、肉体の死後もです。このような神の「あわれみ」を経験するときに、人に対して誇ったり、人を批判したり、裁いたりすることはできません。批判は「あわれみ」の逆ではないでしょうか。批判する思いが出てくるからこそ、愛せなくなります。争いを生みます。しかし、自分自身が誇れる者ではなく、神の「あわれみ」を受けなければならないことがわかるときに、本当の意味で人を愛せるようになるのです。そのように愛せるだけで、本当に幸いなことです。その愛は、家族関係、友人関係、さまざまな人間関係を豊かにしていきます。そして、神もまた、その人をゆたかにあわれみ、愛し続けてくださるのです。
確かに、神の愛と比べれば、まだまだ自己中心的で、いい加減な愛かも知れません。それでもなお、神はそのような人を喜んで愛してくださるのです。責めるのではなく、弁護人となり、盾となり、後ろ盾となってくださるのです。ここにこそ、本当の幸いがあるのです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません