みことばの糧17
あなたと個人的にかかわられる神 ~その深いみわざ~
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」
ヨハネの福音書4:41~42
本当にイエス・キリストによって救われた人は、しばしば福音は宗教ではないとよく言います。それは日本人が一般的に考える「宗教」とは大きく違うからです。その一つは、イエス・キリストを信じる信仰は、組織に縛られることも、仲介されることもなく、一人一人が自分で直接聖書の言葉を信じ、人と人が個人的に信頼関係を結ぶように、直接神と結び着くことができるからです。実は、このような信仰は、もともと聖書の民であるイスラエル人の中にさえ珍しい信仰でした。しかし、イエス・キリストが人となって来てくださったことにより、このことが実現したのです。一人一人が、どのような人であっても個人的に神と信頼関係を結ぶことが出来る。今日の箇所は、短い言葉の中にそのような神の深いみわざの実現を見ることの出来る箇所の一つです。
この箇所が私たちに伝えているメッセージを今日は、3つ見て行きます。その内の一つにでも目を留めて頂ければ幸いです。
1、弱い者を通して現される神の救いのみわざ
この箇所は、イエス・キリストを信じたひとりのサマリア人女性から、救い主の到来を聞いて信じたサマリア人たちのことが書かれている箇所です。彼らは最初、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じたと聖書は記します(39節)。非常にシンプルです。しかし、これは本当は驚くべき出来事です。なぜなら、イエスは人間としてはユダヤ人であり、サマリア人とユダヤ人は互いに犬猿の仲だったからです(9節)。その彼らが、男尊女卑的な社会であった当時、一人の女性が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」という証言だけで、ユダヤ人であったイエスを救い主として信じるとは、到底思えません。それなのに、彼女の証言は、彼らを一瞬で信じさせるほどの影響力を持っていました。それは、おそらく彼女が今まで人目を避けて生きる、後ろ暗い問題を抱えていたことを彼らが知っていたからに違いありません。離縁された女性が差別され、結婚せず同棲することが罪と理解出来ていた当時の社会で、彼女のように5回も結婚に失敗し、今も結婚せずに同棲している(18節)という事実は、許されざることでした。たとえ、それを彼女が隠し通していたとしても、彼女がよくない問題を抱えて、人目を避けている事実は、彼女が思う以上に周囲に伝わっていたに違いありません。けれども、その彼女の秘密をすべて知っていた人がいる。知っているだけでなく、彼女をこれほどオープンにし、喜びで満ち、行動力あふれる人に変えた事実を見て、驚愕したのでしょう。
人は、人の間違いを指摘することは簡単ですが、その人の心を変えることは不可能に近いです。無力です。しかし、イエスという人物は、それを短時間で実現してしまった。彼らは、そこに驚いたからこそ、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」という言葉を聞いただけで、信じたのです。ことばだけでなく、変えられた彼女の姿、生き方のすべてが証言となったからです。
当時サマリア人たちは、礼拝すべき場所に異論を持つイスラエル人を嫌悪していました。けれども、神はそのサマリア人でさえ、この人は駄目な人間という目で見てしまうような女性を通して、救いを伝えました。神は、弱い者を通して救いのみわざを輝かせるお方です。ですから、キリスト教は弱い人だけが信じる宗教ではありません。弱い人さえも変え、高くし、悔い改めに導き、強くされることを通して、神はあなたを招いておられるのです。多くの場合、人は誰しも弱さや問題を抱えていますが、サマリア人の女性のようにその弱さをかくして背伸びしたり、自分より弱い人を非難したりしながら自分を保っています。けれども、神は、この世が弱いと見る人を通して、神の力を現し、人間を本当の強さに導こうとしておられるのです(Ⅰコリント1:26~28、Ⅰテモ1:15~16)。自分の弱さ、問題点、罪を認め、悔い改める力こそ、本当の強さです。弱さの内に輝く神のみわざに目を留めてください。
2、個人的な自立した信仰
しかし、そのように人を通してキリストを信じるのは、入り口に過ぎません。とくに日本人は、人目を気にしますし、人の意見に合わせようという心理が強く働いてしまいます。時に、イエス・キリストを信じている人でさえ、神がどう思われるかよりも、周りにどう見られるか、また人に認められることを気にしてしまいます。しかし信じたサマリア人たちは、「イエスのことばによって信じ」(41節)、自分たちにイエスを伝えた女性にこう言いました。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです」。これが本当の信仰です。人から聞いて信じる時は、あくまで語った人の証言力に頼っているに過ぎません。(だからこそ、神はしばしば弱い人を通して、福音を伝えます。それの目的の一つは、伝えた人自身の力に頼ってしまうことを防ぐためです)。しかし、彼らは「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分か」りました。これが、神を信じる信仰です。私たちは、信じる手がかりとして、福音を伝え、解き明かす人を必要としています。しかし、それはあくまでも手がかりです。手がかりを得たならば、あなた自身が福音の本体であるイエスの言葉を直接聞き、そのことばを信じるべきです。そのことばは、聖書に記されています。聖書に記されているイエスの言葉を聞き(読み)、この方こそ神の御子、救い主であると信じる時に、あなたは、神と直接結び着くのです。信じられなかったら、それもまた神に問いかけて頂きたいのです。神と人間との仲介者は、イエス・キリストだけです(Ⅰテモテ2:15)。人間に認めてもらう必要はありません。逆に、人があなたをクリスチャンと認めても、たとえ教会に所属していても、あるいは自分はクリスチャンだと主張しても、あなた自身がキリストご自身の言葉を信じていないならば、それは信仰ではありません。信仰は、あなたと神の一対一の問題です。人を介さず、聖書に記されたキリストのことばだけを頼りに神を信じるとき、あなたの信仰は、神と直接結び着く、個人的な、自立した信仰となる。そこに救いがあります。これこそが福音の力なのです。
一人の証言を通して大勢の個人が救われた背後にある神の壮大なみわざ
2、で見た個人的な信仰は、律法によっても国家によっても、家族によっても生み出せるものではありません。むしろ、サマリア人とユダヤ人という民族感情は、対立を生み出しただけで、個人的な神への信仰を生み出したりはしませんでした。
しかし、神は、民族、国家、組織、そして生まれ育ちにさえ関係なく、個人的な信仰を生み出しました。この個人的信仰が、人を罪の性質から救い出し、正しさと喜びと愛と平和が両立する生き方を可能とするのです。神の民と呼ばれたイスラエル人でもなく、社会的にも道徳的にも神の国から遠く離れていた女性にその信仰を生み出し、さらにその一人を通して大勢のサマリア人の内に個人的な信仰を生み出しました。それは、その一人の女性の伝え方が上手だったからではありません。そのために神が壮大なご計画を実行して来られたからです。神は、モーセを遣わして律法を与え、サマリア人の先祖たちを通し、罪を示し、救い主への期待へと導かれました。そして、一人の女性の弱さ、罪深さ、そしてイエスご自身の飢え・渇きさえも(6節)、彼らが個人的信仰に導かれるための重要な背景、「労苦」となったのです(38節)。私という一人の人が救われるために、神は非常に長い時と、多くの働き人の労苦を備えてくださったのです。あなた一人のためにも、あなたの想像を遙かに超える備えと導き、多くの働きがすでにあるのです。ですから、あなたがキリストに向くならば、すでにそこに救いに必要なものはすべて備えられています。キリストに向くことこそ、最も重要なことなのです。
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