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みことばの糧24

2022年11月12日

真の信仰はこの世の偏見を取り除く

私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。

ヤコブの手紙2:1

 

 イエス・キリストに対する信仰は、現実離れした社会から浮いたものだとか心の中だけの問題、あるいは古い価値観と思う人がいるかもしれません。クリスチャンでさえもが、しばしば信仰とこの世の社会を切り離して考える誘惑にあいます。しかし、聖書が教える本当の信仰は、この世に生きながら、なおこの世が築き上げた、あるいは、縛られている歪んだ価値観からその人を救い出すものなのです。

 

1、信仰を持っていてもなおえこひいきしてしまう現実

 聖書は、単なる理想論ではなく、人間の弱い面も不都合な面も隠すことなく、曖昧にすることなく向き合います。当時、ヤコブが手紙を書いた相手のクリスチャンたちは、イエス・キリストを信じていながら、この世と同じようにえこひいきしてしまっていました。彼らの集会に「金の指輪をはめた立派な身なりの人」「みすぼらしい身なりの貧しい(直訳「きたならしい」)人」が入って来たら、あなたがたは「立派な身なり」をした人には良い席を勧めて、「身なりの貧しい人」には、「立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言っているのではないかと、ヤコブは責めています。この話しは、仮定として書かれてはいますが、6節で「それなのに、あなたがたは貧しい人を辱めた」と断言していますので、恐らくこれと同じようなことが日常茶飯事だったと思われます。彼らがこのように振る舞うのは、当時の社会では特別なことではなかったでしょう。当時「金の指輪をはめた…人」というのは、元老院議院や騎士(エクィテス)に限られ、そのように身分の高い人たちの好意を得ることは、当時の社会では非常に重要だったからです。優遇しなければ、危険もあったでしょう。逆に貧しく汚らしい人を優遇すれば、優遇した人も仲間だと思われ、冷たい目で見られたのではないでしょうか。そのような厳しい現実の中で、イエス・キリストを信じていても、そのような社会の歪みから自由になりきれていない、むしろ荷担してしまう現実があったことをごまかすことなく伝えています。それは、私たちがこのような問題から目を背けることなく、向き合うためです。それと同時に、イエス・キリストの福音を正しく知るならば、そのような誘惑にも勝利させる神の力がそこにあるからなのです。

2、福音が語る現実

 聖書が語る信仰とは、「私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰」です。イエスは、家畜小屋で生まれ、大工の子として育ち、どの派閥にも所属することなく、こびることも世に流されることもなく、神のことば、聖書のみに生きられました。そのイエスを、神を信じているはずのユダヤ人が十字架につけてしまいました。けれども、神は一つの罪汚れもなく、神に従いとおされたこの方を、死者の中からよみがえらせ、「この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」(ピリピ2:9)。イエス・キリストを信じるということは、このイエスこそが、この世で最も輝かしい栄光を持っておられると信じることです。そうであるならば、それを信じた人は、そのキリストによって価値を認められた人に対してもまた、心からの敬意をもって受け止めるはずです。「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされた」(5節)と聖書は教えているからです。これは、神は貧しい人をえこひいきされるという意味ではありません。この世で貧しい人であっても、神の目には罪人であることに変わりありません。しかし、神はキリストを信じる者に、キリストと同じような価値を認めるようにしてくださいました(エペソ2:6)。それでもなお、この世に生きている限り、人はこのヤコブ書を最初に読んだ人たちのように、この社会の価値観に影響を受けてしまう。だからこそ、神はその価値観がいかに神の御前に愚かであるかを示すために、あえてこの世が価値を認めない人を優先的に救ってくださるのです。その事実を本当に知っているならば、たとえ身分の高い人が入ってきても、特別に優遇することはしないはずです。聖書は、この世の権威者に対しても義務を果たすように教えています。しかし、教会の中で敢えてそのような人を優遇するならば、神もまたそのような人を優遇しておられるというメッセージを発するのと同じです。それは、神が価値を認めてくださった「貧しい人を辱めた」ことに他なりません。それは、「罪を犯して」いることに他ならないと聖書は厳しく指摘しているのです(9節)。

3、誘惑に打ち勝つ忍耐の必要性

 確かに、この世の価値観に縛られずに生きるのは簡単なことではありません。この世の価値観に縛られないというのは、この世の価値観すべてを否定することではありません。争いをもってこの世に反抗することでもありません。秩序と礼節を重んじつつ、数やお金の力、声の大きさ、人間関係の器用さ、認知度、利害等によってゆがめられた関係から自由にされること、そして神がお与えになる価値を尊ぶということです。信仰は、この世のえこひいきから私たちを自由にし、えこひいきの罪から人を救います。けれども、それは決して簡単なことではありません。ですから、信仰とは反する判断をし、罪を犯している現実をヤコブは厳しく責めますが、彼らが救われていないとか、クリスチャンではないとは言いません。むしろ、「私の兄弟たち」と愛と親しみを込めて呼びかけています(1節)。ヤコブは、この信仰に生きることが、決して簡単ではないことを知っているからです。しかし、それと同時に、それでもこの世の誘惑に打ち勝ち、信仰に生きるならば、「神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受ける」(1:12)ことも知っています。「その忍耐を完全に働かせ」るならば、「あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者とな」ることも知っています(1:4)。確かに簡単ではないが、神は必ずそのように生きる人に報いてくださる。その報いは、困難と比べものにならないほど大きい。そして、この報いの大きさに目を留めることこそヤコブの言う「知恵」なのです(1:5)。そして、この知恵を神に求めるならば、必ず与えられる。だからこそ、ヤコブは彼らの問題をはっきりと示し、厳しく責め、そして本当の報いを得るように励ましているのです。

 この知恵を知らず、自分に都合の良いところだけを切り取って、罪の赦しだけ、神の愛だけ、平等だけをいびつに信じるところには、何の力もありません。「えこひいき」から解放された、神の価値観に生きる生き方を産み出さない信仰は、何の役にも立たたない、人を救うこともない、死んだ信仰なのです(14,17節)。しかし、聖書の教える知恵に基づく本当の信仰は、人を救い、生き方を変え、この世のあらゆる罪の歪んだ影響に打ち勝たせる神の力なのです。

 ぜひ、この信仰を正しく知り、行動を産み出す力ある信仰を自分のものとしてください。わたしも、さらに求めたいと願っております。神は、求める者には良いものを惜しむことなく誰にでも喜んでお与えになる方だからです。