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みことばの糧26

心の中から差別・えこひいきを取り除き自由にする神のあわれみ

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。

ヤコブの手紙2:13

 

 普段優しい人が、いざというときには意外と冷たく、逆に普段非常に厳しい人が、いざというときには本当に優しく頼りになるという経験をされたことがないでしょうか。それは恐らく、その厳しい人は自分にも厳しく、そのために自分の弱さについても誰よりもよく知っている。知っているだけでなく、しっかりと受け止めているからではないでしょうか。そのように、神の優しさだけでなく、厳しさを厳粛に受け止め、自分に対して厳しい人こそ、差別の心から解放された、本当の思いやりの心、差別のない心、そしてそれを実践していく力を与えられて行く。聖書は、その真理を私たちに教えてくれます。

1、キリストを信じる者は、人の目を恐れるより心を見る神の律法に生きる

 ヤコブは、2:1~3でイエス・キリストを信じると言いながら、人を差別してしまうクリスチャンたちの問題を指摘しました。そして、そのように「えこひいき」してしまうクリスチャンたちに、ヤコブは8節でこう言います。「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です」。この「最高の律法」という言葉は、直訳すれば「王の律法」です。ヤコブの手紙を最初に読んだ人たちは、「金の指輪をはめた立派な身なりの人」(2節)、つまり元老院議院や騎士階級の人たちにえこひいきをしていました。それは、彼らがこの世において非常に大きな力、影響力を持ち、彼らの好意を得ることが自分たちに幸いをもたらし、彼らの機嫌を損なえば自分の立場を危うくするという思いに囚われていたからでしょう。確かに、この地上ではそのような現実を経験することが少なくありません。当時は、なおさらこの問題は大きかったでしょう。しかし、聖書が教える福音、イエス・キリストを信じた者は、万物の支配者である王は、「私たちの主、栄光のイエス・キリスト」であることを知ったはずなのです(1節)。そのことを知ったのならば、この世で地位のある人の目よりも、王である神の律法にこそ目を注ぐはずです。人に褒められても、神の律法に違反していれば心を痛めますし、人に非難されても神の律法に生きているならば、神にご自身が味方してくださることに確信を持てます。

 この点で、律法を重要視するならば、当時のユダヤ人たちと同じではないかと、思う方もおられると思います。しかし彼らは、律法を守っているつもりではいましたが、実際には先祖たちの言い伝えを守り、先祖たちの権威や、世間の目を気にしていたのであって、本当に王である神の律法として聖書そのものを受け止める人はわずかでした。しかし、聖書こそ全世界の頂点に立つ王の律法なのです。そして、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という律法は、旧約聖書の律法の要約であり(レビ19:18)、イエス・キリストご自身も支持された律法の中心核です(マルコ12:31等)。それなのに「えこひいき」するならば、その人はこの王の律法に対する「違反者」(9節)なのです(申命記10:17~19)。そして、一つでも律法に違反するならば、「すべてについて責任を問われる」と聖書は言います(10節)。人間の法律でも窃盗を犯せば、「すべてについて責任を問われ」ます。他のすべての法律を守っていたとしても、言い訳にはなりません。たった一つでも犯罪を犯せば、犯罪者として刑を受けなければなりません。神の律法でもそれは同じです。「えこひいき」の罪であっても、たった一つでも神の律法に違反すれば、その人は、「違反者として責められ」る(9節)。私たちは、この事実を厳粛に受け止めなければならないのです。このように受け止める人は、この世の目に囚われ、えこひいきすることはないのです。

2、神の律法を真剣に受け止める人こそ神のあわれみを知る

 しかし、このように言うとクリスチャンの方が、かえって違和感を覚えるかもしれません。「人は律法によっては救われないはずだ」と言うでしょう。また、イエス・キリストの十字架によってすべての罪は赦されたはずだとも言うかもしれません。確かにそうです。しかし、それはあくまでも神の「あわれみ」のゆえです。イエス・キリストを信じた者が罪赦されるのは、私たちが償ったからでもなく、良いところがあったからでもありません。あくまでも神の一方的なあわれみのゆえに、神ご自身がすべての犠牲を払ってくださったゆえなのです(Ⅰヨハネ4:10等)。この「あわれみ」を忘れるならば、「あわれみのないさばきが下され」ると聖書は警告するのです(13節)。イエス・キリストを信じる者は、行いによらず、信仰によって恵みによって救われることは重要な真理です。しかし、ヤコブが教えるこの事実もまた、決して無視してはならないのです。この真理は、ヤコブだけでなくキリストも(マタイ18:32~35)、パウロも(11:22、30)教えている大変重要で厳粛な真理なのです。ですから、赦されているからと軽く見ず、その律法にふさわしく生きることを追い求めるべきです。イエス・キリストを信じた者は、刑罰に脅されて律法に従うのではありません。そうではなく、罪の赦しと、そのために御子を十字架につけてくださった神への感謝と愛によって、「自由」な心で律法に「ふさわしい」生き方を目指す者なのです(12節)。赦されているから、律法の行いによって義と認められるのではないから、律法を無視してもよいのではありません。そのように考えるなら、むしろかえって律法の文言に縛られているにすぎません。報いが伴わなくても、その行いに魅力を覚え、行いたいから行う人こそ自由です。キリストによって刑罰が取り去られ、律法を行ったから受けいられるわけでもない。けれども、王の律法だから、そして、私たちのためにキリストさえも犠牲にしてくださった方だから、その方の御心に生きる。そこにこそ真の自由があるのです。そして、そのように「王の律法」に向き合うならば、「えこひいき」をはじめ、様々な罪を犯している事実に気づかざるを得ません。たった一つの法を犯しても、「違反者として責められ」て当然なのに、神の律法に照らせば数え切れないほどの罪を犯している。神はそのすべてをご存じにもかかわらず、そのような私を愛し、神の子として大切にしてくださる。そのために、御子さえも十字架にかけてくださった。そこには、計り知れないほど深い神の愛とあわれみがあります。もう赦されたからと言って、王の律法に向き合わないならば、結局この世の力に影響を受け、のまれ、差別や「えこひいき」からも真の意味で自由にはなれません。しかし、赦されたからこそ、私たちの栄光の主である方の律法に真剣に向き合うとき、そこになかなか生きられない私に注がれている神のあわれみと愛の深さを豊かに経験していくのです(ローマ5:20)。

3、あわれみがさばきに対して勝ち誇る

 このように神のあわれみを知っている人こそ、最終的な勝利をおさめる人です。「あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです」とヤコブはこの箇所を締めくくります。神のあわれみを知らない人は、自分にもできていないことが数多くありながら、そこに目を留めず、他の人の問題を見つけて裁きます。そのような人に対しては、やがて神の審判のとき、神はその人が目を背けていた隠れていた罪さえもすべて明らかにし、神から「あわれみのないさばきが下され」るのです。自分が批判されないために、心の中では問題視しつつも、人間関係維持のために表だって言わない人もいます。しかし、心をごらんになる神の御前には、同じです。しかし、王なるキリストの律法を最高の律法として真剣に向き合う人は、自分こそ本来さばかれなければならない、刑罰にふさわしい者であることを知っています。ですから、人を上からさばくことができません。だからと言って、甘くなるわけでもありません。神の裁きが正しいことを知っているからです。そして、神は私のすべての罪、汚れ、欠点をご存じであり、本来そのような罪を意味嫌われること知っていてなお、その神が私のためにキリストを十字架にかけてまで赦してくださった、そのあわれみを知る人は、厳しさを保ちつつも、人に対しても寛容でまことのあわれみを持って接する人になります。自分を上において相手を下に見るこの世のあわれみではありません。自分自身、あわれみを必要としている弱い者だからこそ、そして神の命がけの愛を受けたからこそ抱くことの出来る、深い共感です。そのような心こそ、神の律法を自分の心として喜んで行う行動へと駆り立てます。そのような心こそ、罪に厳しく、人に優しい生き方を生み出します。そして、そのような心こそ、神を喜ばせ、神の義を実現し、さばきのときにも神のあわれみを受け、豊かな報いを受ける勝利者となるのです。そして、どのようなときも神が味方であることを強く確信し、この世の差別に対しても、力強く打ち勝っていく者とされていくのです。

 この世では、他人をさばく人の方が強く見えるかもしれません。あるいは、自分が責められないために、うまくごまかして生きる人の方が器用に見えるかもしれません。しかし、自分の罪、弱さを知り、神のあわれみを知っている人こそ、最も強く、自由な人なのです。