みことばの糧8
信仰の大盾を取る
これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
エペソ人への手紙6:16
人が本当に立ち向かわなければならない戦いは、誰かを倒すための戦いではなく、「一切を成し遂げて堅く立つ」ための戦いです(13節)。イエス・キリストを救い主として信じるならば、神はその人を新しく造り変え、「良い行い」さえも「あらかじめ備えてくださいました」(2:10)。そして、パウロは神が備えてくださった「良い行い」を4:25以降で伝えます。ですから、信じて救われた者は、これらの行いを喜べる性質が与えられ(4:24)、また行うために神の「大能の力」、全能の力を働かせてくださいます(1:19、6:10)。ですから、信じた者は誰でも、神が備えてくださった「良い行い」ができるのです。そして、その「良い行い」は、神からの報いを引き出すためではなく、むしろ「良い行い」が出来る事自体が、自分と周りを幸いと喜びへと導くのです。
ところが、この世には、この「良い行い」を妨げる様々な働きがあります。「悪魔の策略」と呼ばれているものです(6:11)。私たちの戦いは、この「策略」に対して、人を疑い、人を責め、人と敵対するものではありません(6:12)。そうではなく、神があらかじめ備えてくださった行いの「一切を成し遂げて堅く立つ」ことなのです。神はこの戦いに勝利するための力を神は、与えることができます(10節)。そして、その神の大能の力による「神の武具」を私たちに与えてくださっています。その一つが、「信仰の盾」です(16節)。この「信仰の盾」こそ、「悪い者が放つ火矢をすべて消すことができ」る、力強い神の武具なのです(16節)。
「悪い者が放つ火矢」とは
まず、この「信仰の盾」の重要な役割は、「悪い者が放つ火矢」を消すことです。当時の火矢の目的は、建物に火をつけて大損害をもたらす他に、敵兵を恐れさせ、陣形を崩す目的でも使われました。陣形が崩れれば、戦いには簡単に負けてしまいます。サタンの攻撃の一つは、この「火矢」です。つまり、神に信頼することがばかげているかのように様々な理屈や問題によって恐れさせ、退かせ、教会を分断することです。「堅く立つ」という勝利を脅かすのが、この「火矢」です。しかし、「信仰の盾」は、この「火矢」を「すべて消す」ことが出来るのです。
「真理の帯」の上に信仰の盾を取る
次に、この「信仰の盾」は、「これらすべての上に」、すなわち「真理の帯」、「正義の胸当て」、「福音の備え」(14、15節)の上に身に着けるものとされています。例えば「真理の帯」について言えば、聖書は、罪(心の性質も含む)の恐ろしさ、滅び、とキリストの救いの現実を「真理」として教えています。それと同時に、エペソ書では、キリストのしもべとして、「互いに従い合」うことが強調されています(5:21)。「互いに」とは言っても秩序があります。妻は夫に従い(5:22)、子は親に従い(6:1)、しもべは主人に従うように教えられています(6:5)。それと同時に、夫はキリストのように妻を愛し(5:29)、親は子どもを主のものとして畏れを持って訓戒し(6:4)、奴隷の主人も、自分自身がキリストの奴隷として、キリストのものである自分のしもべをも差別せず良い行いには報いを与えるように教えました(6:7~9)。しかし、これらの教えは、当時のエペソ人には、愚かな教えであり、そのような教えを主張すれば、むしろローマに媚びている愚か者と言われかねなかったことでしょう。現代でも、この聖書の教えに堅く立とうとすると女性蔑視、子どもの権利侵害、封建的、時代遅れと言われ、責められかねません。これこそ、サタンの火矢です。しかし、世が何と言おうともキリストこそ、最高の主権を持つ方であり、(1:21)、その方に従うことこそ祝福であり、神の最終目的であり(1:10)、幸いである。御言葉に従う時に、本当の主である神御自身が報いてくださる。この御言葉に正しく立つところにこそ、男女の価値が尊ばれ、家族が幸いとなり、働きがいのある人生を送ることができる神の備えられた道と信じるならば、私たちは、この「火矢」を消すことができるのです。
「正義の胸当て」の上に信仰の盾を取る
また、「正義の胸当て」については、世の善悪の基準は、聖書の基準とは異なります。時代や国、地域によっても違います。当時で言えば、ローマ皇帝の判断こそ、すべてを支配しているかに思えました。逆に、聖書の基準の高さを知れば知るほど、自分の罪深さに打ちのめされます。その時に、聖霊は私たちを赦しの恵みに導きますが、サタンは聖徒を訴えます(ゼカリヤ3:1等)。しかし、神の裁きが必ず行われること、その裁きにはこの世の権力者でさえ服さなければならないこと、しかし、キリストを信じる者に対しては、キリストの身代わりの故に神はその人を義と認め、わずかな罪をも認めない。その事実を信じる信仰に立てば、これらの脅し、つまり「火矢」は、その脅威を失ってしまうのです。そして自分の義(しばしば流されやすく、間違いやすく、偽善的、独善的で、神の御前にはないも同然)ではなく、キリストの義による「正義の胸当て」が、まことのいのちを守ってくれるのです。
「平和の福音の備え」の上に信仰の盾を取る
そして、「平和の福音の備え」についても、エペソ教会がユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に争いがあったように、サタンは常に神の造られた平和がないかのように人を誘惑します。他者の欠点に目を留めさせ、それが社会や教会の足を引っ張るかのように誘惑します。しかし、本来の自分は、神を怒らせることしかできない罪人であることを思い返し(2章)、ただキリストの十字架によって神の民とされたという福音信仰に立ち続けるならば、私たちは、人を責められない事実を認めざるを得ません。むしろ、神はその人をも立たせ、成長させ、用いることが出来ることを信じることになります。この信仰が、サタンの火矢を退けるのです。
「信仰の盾」を活かす祈り
そして「目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈」る時に、この「信仰の盾」は、完全な力を発揮し、「すべての火矢を消す」のです。当時のローマ軍の大盾は、とくに火矢等の投擲武器に対し「テストゥド(亀)」陣形を組んで、陣営を守りました。亀の甲羅のように前後左右の人の盾と組み合わせ、隙間なく構えることで、強力な防備を誇ったのです。とくに信仰の戦いの目的である「堅く立つ」ことにおいて、このテストゥド陣形は、強力な力を発揮します。それを成し遂げるのが、「目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈」る祈りなのです。
「信仰の盾」を正しく用いる
このように「信仰の盾」は、サタンの強力な武器である霊的な「火矢」を打ち消す、効果的で強力的な武具です。それと同時に、正しい使い方が求められる武具でもあります。「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」を補強する、上から構える武具として使い、祈りによって協力し、組み合わせるときに、「悪魔の策略」に対して無敵の力を発揮する武具なのです。
聖書に堅く立ち、正しく信じ、福音を土台に互いに祈り合い、戦いの本当の目的を見失わない。そのようにして、神が与えてくださった「信仰の盾」を最大限に活用しようではありませんか。そうすれば、どんな困難が襲ってきても、私たちはこのエペソ書が教える、幸いな生き方が全うでき、その幸いを味わい、福音の素晴らしさを証ししていくことができるのです。
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