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みことばの糧41

キリストの復活と福音 ~キリストの復活なくして救いも福音もキリスト教もない~

私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。Ⅰコリント15:2

 イエス・キリストの復活は、聖書の教えの中で最も信じ難い真理の一つです。聖書が書かれた時代でさえ多くの人は、この真理をあざ笑いました。当時の教会でさえ、信じられない人が出ていたほどです。しかし、それでもなお聖書は、イエス・キリストの復活を伝えます。それは、それが事実であると同時に、人間の救いに必要不可欠だからです。そして、イエス・キリストの復活を抜きにした福音は、福音ではありません。しかし、このイエス・キリストの復活が事実であるならば、この事実こそが、罪に汚れた私たちの心、生き方、目的、人生そのものを聖め、正しくし、愛の心に満ちあふれさせ、力づけ、成長させる神の救いなのです。

1、この福音は考え出されたものではなく伝えられた事実

 パウロは、当時のコリント教会のクリスチャンたちに、「私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせると言います(1節)。それは、彼らの中にイエス・キリストを信じていると言いながら、「死者の復活はないと言う人たち」が出てきていたからです(12節)。ギリシャ都市コリントは、当時都会であり、世界の様々な文化が交流し、ギリシャ哲学も盛んでした。そのような彼らにとっては、キリスト教も興味深い哲学の一つに捉えられましたが、こと復活になると嘲笑の的となりました(使徒17:32等)。そのような世の流れに影響を受け、「死者の復活」が信じられない人が増えていった。しかし、「死者の復活」がないならば、本来パウロの語った福音とは異なる。それは、もはやキリスト教でも、イエス・キリストの教えでもない。救いの力もない。パウロは、そうはっきり伝えなければなりませんでした。現代も、キリスト教会と言いながらキリストの復活は、心の中だけで信じれば良いとか、事実ととらえなくても良いと考える教会もあります。しかし、そのような考え方自体、聖書がはっきり否定しています。そして、「死者の復活」を否定するということは、イエス・キリストを「信じたことは無駄にな」る。それは神を信じてもいないし、聖書を信じてもいない。まして、救われることはない。そのことを聖書がはっきりと伝えています。

 イエス・キリストの復活がなければ福音ではない。その根拠について、聖書は非常に重要な点を伝えています。それは、この福音が「伝えられたもの」という点です。パウロは、「私も受けたことであって、次のことです」と言います。つまり、パウロが伝えた福音のことば、パウロ自身が考え出したものではありません。パウロ自身も伝えられ、自分が受けた通りを伝えた。だから、これ以外に福音はないというのです。

2、この福音はよみがえられたイエス・キリストご自身から受けたことば

 さらにパウロにこの福音を伝えたのは誰かと言えば、よみがえられたイエス・キリストご自身です(8節、ガラテヤ1:12)。パウロ自身は、それまでこの福音を伝える教会を自分自身が迫害していました。そのように教会を迫害することこそ、神に従うこと、神に喜ばれることだと信じて来たからです。ところが、よみがえられたイエス・キリストにお会いして以降、パウロ自身がイエス・キリストの使徒たちと同じ福音を伝えるようになったのです。自分が迫害していた教えを、その自分自身が正確に使徒たちと同じ福音を伝えられるとは考えられません。実際ガラテヤ1:17,19でパウロが福音を伝えるようになるまで、パウロは使徒とは誰にも会わなかったと証言しています。ですから、パウロが伝えた福音は、人間の解釈や悟りによって得たものではなく、よみがえられたイエス・キリストご自身から受けたもの。十字架にかかる前のパウロは、イエスから教えを受けていないにもかかわらず、イエスと行動をともにした使徒たちとまったく同じ教えを伝えていること自体、これがイエス・キリストご自身、しかもよみがえられたイエス・キリストご自身から受けたものであることを示しているのです。

3、この福音は旧約聖書が書いていた事実

 さらにこの福音は、イエス・キリストの使徒たちや、誤解を恐れずに言えば、イエス・キリストご自身が教える前からあったものです。それを示すために、パウロは、3節、4節で「聖書に書いてあるとおりに」と記しています。まず、救い主が十字架で「私たちの罪のために死なれ」ることは、イザヤ53章(紀元前700年ぐらいに書かれた)にこれ以上ないほどはっきりと書かれています。そして、救い主がよみがえることについても、詩篇16篇等に記されています。ですから、パウロや使徒たちが伝えた福音は、旧約聖書が教えていた内容に従っているに他なりません。つまりキリストの復活を否定することは、旧約聖書すべてを否定することでもあります。それは、キリスト教でないどころか、聖書そのものを否定することでもあります。引いて言えば、聖書を記された神ご自身に反抗することに他なりません。それは、パウロがかつて教会を迫害していたのと、まったく同じ行為です。イエス・キリストの復活は、それほど教会、キリスト教、ひいては聖書全体において核心的事実であり、それを否定するならば、福音でないどころか、救いもなく、聖書全体を否定し、神を否定することになる。それほど、重大で決定的なこと。聖書は、そのように明確に教えているのです。

4、復活のキリストを信じるこの福音が人を救い聖める

 ここまでは、否定的な内容を見てきました。しかし、イエス・キリストの復活が事実であるということは、信じる人に神の恵みを豊かに体験させ、その心を聖め、その歩みを軌道修正し、愛と感謝に満ちあふれさせ、行動力を豊かに、力強くする。それほどの結果をもたらすものでもあります。

 とくにパウロの場合、それが顕著でした。なぜなら、パウロによみがえられたイエスが現れるというのは、パウロが迫害していたのは、パウロが信じていた神ご自身であったことを否応なく思い知らされることであったからです。パウロは、今まで先祖の伝統を破壊し、罪の赦しを伝えるキリスト教など言語道断だと思い、彼らを捕らえ、絶滅させることこそ神に仕えること、正しいことと信じて、正義感で教会を熱心に迫害してきました。ところがそのような神に向かって拳を上げるようなパウロに、イエス・キリストはご自分を現されました。そればかりではなく、ご自分の救いを伝える重要な任務をパウロにお与えになったのです。それは、パウロにとって信じられない恵みでした。パウロは、8節で自分のことをクリスチャンの中で最低の存在だと告白しています。そのような私にまで、よみがえられたキリストが会ってくださり、むしろ重要な使命を委ねてくださった。だからこそ、パウロは今まで心の底から忌み嫌っていた異邦人を命がけで愛するようになりました。同胞であるユダヤ人に憎まれ、いのちを狙われても、その心は変わりませんでした。そして、自分を迫害するユダヤ人への愛も、薄れるどころか、ますます強くなっていきました。それは、自分のような最低の人間に、復活のキリストが現れくださったからに他なりません。

 キリストの復活は、私たちの歩みがどれ程間違っていたか。良かれと思いながら、善意から罪を犯していたか。そのことを気づかせます。しかし、それと同時に、そのような私に新たな価値ある人生を生きる道を開いてくださるのです。今までは自分のプライドのために生きて来た。その私が、キリストのあわれみを受けて生きるものと変えられ、様々な偏見に囚われず、分け隔てなく隣人を愛し、そのためにいのちをもかけられるようになる。これが、キリストの救いなのです。少なくとも、復活のキリストは、そのような感動をパウロに与え、パウロの人生を熱心で博学で努力家ではあっても、偏狭な自己中心的な生き方から、愛に満ち、利他的で、感謝に満ちた生き方へと変えて行ったのです。この福音こそ、あなたの人生も、大きく豊かに変える神の力なのです。そのためには、聖書が教える通りの福音を信じる必要があります。「…キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」(3~6節)。確かに、キリストの復活は最も信じ難い真理かもしれません。しかし、ここにこそ、あなたの人生を虚しい人生から実りある人生へ、自己中心的な傾向から、隣人を愛する生き方へ、そして、不満にとらわれるよりも感謝に満たされる生き方へ、臆病で保身的な生き方から、献身的で力強い人を活かす生き方へ変える神の力があるのです。

 信じやすいか、信じ難いか、魅力的か、魅力的ではないかは問題ではありません。キリストの復活なくして福音はなく、救いも、聖書も、キリスト教もありません。キリストの復活こそが、あらゆる人を救う神の救いに必要不可欠の神のみわざであり、聖書の教えでであり、福音なのです。この福音を信じ、この福音に立って生きる人こそ幸いなのです。