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みことばの糧44

よみがえりがなければ世の悪影響には打ち勝てない

もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。Ⅰコリント15:32

 善い生き方、正しい生き方、誠実な生き方は、しばしば難しく感じます。そのような生き方は、すぐに実益をもたらしたり、喜びをもたらしたりするわけではないからです。人間の心の願いとしては、そのような生き方を願う心があります。けれども、人間の心は同時に、すぐに喜びを感じられること、実益が感じられることに向いてしまいます。とくに、善い生き方、正しい生き方を選択した時に、喜びや実益どころか、苦しみや損失が伴うことが予想されると躊躇してしまう。ときには、そのような生き方は理想論だと決めつけ、この世でいかに楽しむかが重要だと言い切ってしまう。そのような問題が人間関係を歪め、人の生き方を苦しく空しいものにしてしまっています。

 しかし、そのような問題にこそ、キリストの死からの復活が解決を与えることを聖書は教えています。聖書は、キリストを救い主と信じる者に、永遠のいのちの約束、よみがえりの約束をしています。その約束に立つときに、私たちはすぐに報いを受けられなくとも、かえって苦しみがあるとしても、良い道を選び取ることが出来る。そのような生き方こそが、私たちの人生を実りあるものとし、世の様々な悪い影響から自由にしてくれる。聖書は、そのことを教えています。

1、よみがえりがなければ妥協的になる

 32節でパウロが言うように、パウロは常に死の危険にさらされていました。「エペソで獣と戦った」というのは、当時ローマが囚人を闘技場で獣と戦わせたことを指していると言われます。ただ、これは比喩的表現とも考えられます。少なくとも30節で「絶えず危険にさらされている」、31節で「私は日々死んでいるのです」と言っているように、常に死の危険にさらされていたことは事実です。その死の危険の具体例が「エペソで獣と戦った」という出来事であったことは間違いありません。当時、パウロが福音を伝え、聖書に従って生きることは、常に死の危険を伴いました。ユダヤ人と異邦人が神の御前に平等とする教えは、ユダヤ人のねたみを買い、しばしば石を投げつけられました。また、当時ローマ皇帝を神として拝めと言われている中で、イエス・キリストを救い主と告白することは反逆罪ととらえられかねず、また、謙遜を勧める福音は、謙遜を恥とする当時のローマ人にとって危険な教えに見られました。パウロは、決して自分のいのちを粗末にしていたわけではありません。いのちをかけることに、自己満足を得ていたわけでもありません。ただ、様々な妬み、誤解、派閥意識等に囲まれながら、神の御前に正しく生きようとすると、絶えず死の危険にさらされたのです。

 もし、「もし死者がよみがえらないのなら」このような生き方には、何の得もない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになるとパウロは言います。わざわざ苦しんでも、どうせ死ぬという結果が変わらないのならば、残された時を楽しんだほうが「得」だということになってしまうからです。しかし、「死者がよみがえ」るのなら違います。たとえ、今、善いことのために苦しんで、死ぬようなことがあったとしても、それで終わらないからです。むしろ、よみがえらせて頂くとき、その時には「キリスト」「王として治める」時となるからです(25節)。その時には、今のように誠実で正直な生き方よりも、ずるがしこく、口が上手で、うまく立ち回れる人の方が得をする世の中ではなくなります。むしろ、善いことのゆえに苦しんだ人たちが報いと栄光を受ける、そのような時代となる(マタイ25:31~46、エペソ6:8、Ⅰペテロ2:20等)。そのことを知っているときに、私たちは今喜べるか、今得をするかという生き方ではなく、たとえ今苦しみ、損失を被ったとしても、神の御前に喜ばれる、誠実で正しい生き方、神に従い、隣人に仕える生き方を選び取っていくことが出来るのです。

 今の私たちは、このような死の危険よりも、生活苦、人間関係、将来の不安等に悩みます。しかし、それらも最終的には、「死」の問題にかかっています。人間が死んで終わりであるならば、今の人生を出来るだけ楽しく生きられた方が良い。それが出来ないことに、不幸を感じたり、無気力になったりする。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」とまでは行かなくとも、何が正しく、価値あることかよりも、今楽しめるかどうかが中心になってしまう。その結果、この世の流れに取り込まれ、空しい生き方、振り回される生き方、そしてこの世の誘惑、罪の影響に囚われた生き方に陥ってしまいます。

2、よみがえりへの信仰が今の人生においても実を結ばせる

 パウロは、まさにこのような信仰を持っていました。だからこそ、毎日が死の連続であっても、最後まで走り続けることができたのです。クリスチャンは、ときどきパウロが行く先々で、成功をおさめた人物かのように思ってしまうかも知れません。しかし、パウロ自身「もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう」と告白しているぐらいです。使徒の働きを見ても、福音を伝える度に愛するユダヤ人から迫害を受け、次の町に逃げて行かなければならない。また、コリント教会のようにせっかく福音を信じた人たちが真理から反れてしまい、不道徳に陥り、パウロを軽視するようになっていった教会もありました。投獄されても、投獄されたパウロを心配するどころか、パウロが投獄されたことを恥じる人たちもいました(参考ピリピ3:29~30、4:10、Ⅱテモテ1:16)。パウロは、自分がかつてパリサイ人であったことを誇り、他のユダヤ人とかわらないことを主張し、異邦人を差別していれば迫害を受けることもなく、パウロのメッセージを聞く人も大勢いたはずです。それでもなお、そのような特権に見えたものを捨て(ピリピ3:4~6)、あえて同胞の憎しみを買い、苦しみを受け、死の危険を冒すことに価値を見いだせた。それは、このよみがえりを信じていたからなのです。このよみがえりを信じていたからこそ、パウロは牢にとらえられてもユダヤ人やローマ人を恨んだり、憎むことはありませんでした。むしろ、牢にいて苦しみながらも喜び、おそらくローマ兵に対しても親切で、礼儀正しい態度を取り、かえって牢の外にいたクリスチャンたちを励まし、戒め、導きました。その姿にローマ兵さえもが感銘を受け、またクリスチャンたちも励ましを受けたのです(ピリピ1:12~14)。つまり、よみがえりの信仰は、肉体の死後だけでなく、今の人生においても多くの実を結ばせたのです。パウロは、多くの実を結ぶのを見たから、立派な働きが出来たのではありません。よみがえりを信じ、そこに期待していたからこそ、今、喜びや報いが見えなくとも、誠実に主に従い続け、その結果、今の世でも多くの実を結んだのです。

 同じように、私たちの生き方をぶれない生き方、世の悪い影響から自由にしてくれるのは、このよみがえりへの信仰なのです。キリストは、神に従い、すべての人を愛し、助け、間違いは間違い、罪は罪として示しました。その結果、十字架の死という悲惨な死を迎えました。けれども、それで終わりませんでした。神は、そのキリストをよみがえらせて、すべてにまさる栄光をお与えにになりました。神は、キリストを信じる者にも、同じようにしてくださる。この信仰がパウロを強くし、また私たちを救い、強めるのです。

 よみがえりの信仰がなければ、私たちは本当の意味で誘惑に打ち勝ち、この世の罪の影響から自由になることはできません。キリストのよみがえりこそが、罪に打ち勝ち、善い生き方、誠実な生き方、実を結ぶ生き方を可能とさせる、神の救いのわざなのです。このキリストを、そしてキリストをよみがえらせた神を信じるときに、あなたも同じ勝利ある生き方ができるのです。