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みことばの糧49

2023年6月13日

よい知恵と悪い知恵 ~知恵は動機によって良くも悪くもなる~

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。 そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ヤコブ3:14~15

 私たちが生きて行く上で、知恵や知識はとても重要な役割を果たします。そして、人はしばしば優れた知恵、最先端の知識、自分にとって役に立つ知恵・知識を求めます。そして、それを持っていると安心したり、誇ったりします。けれども、聖書は知恵や知識の中身もさることながら、動機が非常に重要であること、動機を吟味すべきことを教えます。同じ知恵でも、動機が悪いときに、それは人を生かすように見えて、争いや、混乱、隠匿、不正などを引き起こします。また、実践の伴わない知恵も、人を良くしません。人を高慢にし、争いを引き起こすことが少なくありません。

 聖書は、神の知恵を教えます。その神の知恵は、弱っている者を励まし、不正に陥っている者を悔い改めに導き、争いを和解させる力を持っています。けれども、この知恵こそ動機が問われます。たとえ、聖書から学んだ知恵でも、論理的に正確でも、動機が間違っているならば、それは「上から来た」神の知恵ではないと聖書は言います。むしろ、「地上のもの、肉的で悪魔的なもの」とまで言います。それが冒頭の御言葉です。聖書が教える知恵は、動機がきよめられ、知っていることよりも、実行し、そこに生きることを重視するときに、平和を作り、愛と正しさへと人を導く神の力となる。聖書は、そう教えています。

 

1、悪い知恵とは

 聖書は、どれ程優れた知恵に見えても、あるいはどれ程魅力的でも、聖書的に正しくても、その動機が間違っていればその知恵は、「そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なもの」だと教えます(15節)。では、どのような動機が問題なのでしょうか。この点についてヤコブは、こう言っています。「もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら……」。ここで「利己的」と訳されている言葉は、原語では「党派心」とも訳される言葉が使われています。つまり、自分の正しさを主張したり、自分の属するグループの正当性を主張し、他のグループや他の人の立場を引き落としたり、悪く言うために、自分の知恵の正当性を主張するとしたら、それは「肉的で悪魔的なもの」となってしまうということです。このような問題は、政治でも身近な活動でも、そして残念なことに教会でもよく起こります。最初は、人のためを思って、また、何が最善かを求めて知恵を追い求め、その知恵を伝えようとします。けれどもいつの間にか、自分と立場の違う人たちのあら探しをし、自分や自分たちの正当性を主張することが中心になってしまいます。そして、自分と立場の異なる人たちに打ち勝つことが、何か良いことをしていると勘違いしてしまう。そして、自分自身問題を抱えているにもかかわらず、自分や自分たちの主張が通れば、良かったと感じてしまう。実は、このような考え方こそ、「肉的で悪魔的な」悪い知恵だと聖書は言うのです。

 これは、何も未信者だけの問題ではありません。なぜなら、このヤコブの手紙は、キリストを信じているクリスチャンたちに対して書かれた手紙だからです。聖書は、私たちに罪からの救いを教え、聖書の教えを信じる時に、私たちに神の知恵を与えてくれます。けれども、その動機が間違ってしまうならば、それはもう「上からの知恵」ではなく、「肉的で悪魔的な」知恵なのです。使徒ペテロも、この問題でイエスから叱責を受けました。ペテロは、イエスが「祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」と教えられた時(マタイ16:21)、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」と、師であるはずのイエスを「いさめ始め」てしまいました。もし、ペテロの師であるイエスが、イスラエルの主流派である「祭司長たち、律法学者たち」から否定され、苦しめられるならば、自分たちの正当性が否定され、惨めな思いをしなければならなかったからでしょう。そのようなペテロに対して、イエスは、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されました。まさに、この時のペテロは、「利己的」な思い、派閥的な思いに陥ってしまっていたからでしょう。この時、イエスはペテロ自身をサタンだと言ったのではありません。ペテロの思いが、「悪魔的」な動機に左右されてしまっている。だからこそ、その動機を指摘し、そこから離れるように教えられたのです。

 どれほど優れた知恵でも、また、どれほど聖書的で、神学的にも、論理的にも正しかったとしても、その知恵を自分が認められるため、自分たちの正当性を主張し、他の人を引き落とすために使おうとしているならば、まずその動機を悔い改めなければなりません。そのような知恵は、決して人も世の中も良くしません。かえって、「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行い」を引き起こしてしまうのです(16節)。

2、知恵は持っていることよりも実践することが重要

 では、悪い動機に陥らないために、私たちはどうすべきなのでしょうか。その答えはいくつかあります。その中で、このヤコブ書で重視されているのは、自分自身がそこに生きることです。ヤコブは13節でこう言っています。「その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」。どれだけ優れた知恵を知っていても、人に教えることが出来ても、自分自身ができていないならばそれは知らないのと同じだと聖書は言います(2:14以降)。ある薬が、自分の病気によく効くと知っているならば、その薬を飲むはずです。自分が成長するために、何が必要か知っているならば、それを実践するはずです。それが出来ていないならば、知らないのと何の変わりもありません。

 しかし、そうは言っても、知ってはいるけれどもなかなか出来ないことが多いのも現実です。それでも知恵は、実践し、そこに生きられてはじめて価値があることがわかるならば、決して高慢になることはありません。自分自身ができていないことが、嫌というほどわかるからです。むしろ必然的に、謙遜にならざるを得ません。そして、自分の弱さがわかるからこそ、人にも優しく、励まし、適切に伝えることができます。しかし、自分自身出来てもいないのに、知っているだけで満足し、他の立場を非難し、自分たちの立場を擁護することで喜びを感じてしまうならば、それは偽善です。そのような知恵は人を励まし、強めるどころか、自分の欠点を隠し、あるいは目をそらし、人の失敗を喜ぶような、「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行い」を生み出して行ってしまいます。

 だからこそ私たちは知恵は、実践し、そこに生きてはじめて価値を持つことを知らなければなりません。そこに留まらなければなりません。たとえ、人から認められなかったとしても、その知恵に生きられるならば、そのこと自体を喜べばよいのです。今できていなくても、できるようになることを追い求めることが大事なのです。そのように神に知恵を求めるならば、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神」が、必ずあなたに与えてくださいます(1:5)。偽善的な空しい知恵ではなく、実践的で、「平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善も」ない(17節)。そのような生き方を実現させる知恵を与えてくださるのです。

3、イエス・キリストにこそこの知恵を見る

 イエス・キリストは、まさにこのような知恵を持っておられました。イエスは、決してご自分を他の人やグループと比べることはなさいませんでした。また、自分の正しさが世の中に認められることも求めませんでした。ご自分自身が、語られたことばをすべて実行、実現されました。多くの人を助け、罪人を悔い改めに導き、弱っている者を強め、間違いは間違いと示されました。

 そのためにイエスは大罪人のようにして、十字架につけられました。けれども、捕らえられてなお、イエスはご自分が十字架刑から逃れるために人を批判したり、ご自分の無実を証明しようとすることさえしませんでした。それは、ご自分が多くの人の身代わりになることで、一人でも多くの人が罪から救われることを願われたからです。それが父なる神の御心であることを知っておられたからです。つまりイエスの知恵は、ご自分が人に認められることではなく、一人でも多くの人が救われるために何ができるか、そこだけに向いていたのです。ここにこそ、まさに「上からの知恵」があります。

 パウロは、「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されてい」る(コロサイ2:3)と言っています。このような知恵こそ、私たちを救うのです。このような知恵を追い求めて頂きたいのです。

 私たち、いいえ私自身、ともすると自分が認められるため、自分が苦しまないですむための「知恵」を求めがちになります。しかし、それは非常に危険なことです。神の知恵であるイエス・キリストに目を留め、この知恵に生きられることを追い求めて行く。そこにこそ、偽善や偽りを離れ、平和のうちに義を結ばせる、本当に人を活かし生かす道があるのです。