みことばの糧55
悪口の本質 ~悪口を言ってはいけない根拠の大切さ~
兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。ヤコブの手紙4:11~12
「悪口」は、様々な問題をもたらします。多くの人は、「悪口」が良くないことだということを知っています。それなのに「悪口」は、なくなりません。それどころか、インターネットでは、吐き気を催すほど「悪口」に満ちあふれています。ところで「悪口」は、なぜ言ってはならないのでしょうか。「悪口」を聞いた人が、嫌な気持ちになるからでしょうか。
「悪口」がなくならない原因の一つは、おそらく「悪口」を言ってはいけない根拠が弱いからです。もし、「悪口」を言ってはならない理由が、相手が気を悪くするという理由ならば、目の前に相手がいなければ、「悪口」を言ってよいことになってしまいます。また、「悪口」が人間関係を破壊するからダメだとするならば、自分にとってより大切だと思う人間関係をよくするために、他人の「悪口」を言うことは正当化されてしまいます。だからこそ、匿名性のあるインターネットでは「悪口」が、嫌と言うほどあふれます。そして、その「悪口」が多くの真実を曲げ、多くの誠実な人の心を傷つけ、また、すさんだ心にしてしまっています。
しかし、聖書は「悪口」を言ってはならない理由として、それが神に対する罪だからだと宣言します。人の悪口を言う者は、自分を神より上に置き、神のさばきに文句を言い、神に敵対する恐ろしい行為だと聖書は言うのです。それが、冒頭のみことばです。しかし、なぜ、人の「悪口」を言うことが、神をさばき、神に敵対することになるのでしょうか。
1、「悪口」を言う人は神の律法をさばく罪を犯している
まず、人の「悪口」を言うということは、その人の言動に対し、自分が善悪を判断し、評価をくだし、判決をくだすという行為です。しかし、私たちは本当にその人のすべてを知っているのでしょうか。表面的な一部だけを見て、偏った判断をしてはいないでしょうか。まして、私たちは警察官でも裁判官でもないのです。それ以上に、本当に何が正しく、何が悪いかを正確に判断し、裁く能力と権威を持っているのは、神お一人だけです。
そして、聖書にはこの神がお定めになった「律法」が記されています。その律法は、この世の刑事的問題だけに留まりません。両親を敬うこと、他者の持ち物を尊ぶこと、嘘を言わず常に真実のみを語ること、婚姻関係を尊び、誠実を尽くすこと等、目に見えない心の問題にまで踏み込んでいます。それ以上に、~してはならないという消極的な律法に留まらず、『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』(マタイ22:37, 39等)というように表面的な形式にとらわれず、より積極的な心のあり方、生き方を命じています。この神の「律法」と誠実に向き合うならば、自分が正しいかのように人の『悪口』を言える人は、誰もいません。それでも『悪口』を言えるとしたら、その人自身が神の律法を無視し、神の「律法をさばいている」「律法の悪口を言」っているに等しい。聖書は、そう教えているのです。
本当に善悪を正しく判断出来るのは、心の内まで知っておられる神おひとりだけです。そして、人をさばく権利を持っておられるのは、天地万物をお造りになった神お一人だけです。キリスト教がどうとか、クリスチャンであるかどうか以前に、私たちはこの事実を認めなければならないのです。その事実を認める時に、他の人の「悪口」を言える人などだれもいません。クリスチャンであっても、牧師であっても同じです。むしろ、誠実なクリスチャンこそ、自分の罪深さに気づき、人をさばけないことを誰よりも知っているはずなのです(ローマ3:27、Ⅰテモテ1:15、マタイ18:23~35等)。
2、「悪口」を言う人はイエス・キリストの律法をさばいている
しかし、このように「律法の悪口を言」う罪が指摘されるというのは、むしろ福音的信仰を持ったクリスチャンは、かえって混乱してしまうかもしれません。なぜなら、人は「律法」によって救われるのではなく、信仰によって救われることを聖書から教えられているからです。「律法」は人を救うことはできないと、聖書から知っているからです。
しかし、新約聖書が教えているのは、「律法」は人を罪から救うことができないということであって(ローマ8:3)、「律法」が間違っているとは、一言も言っていません。むしろパウロも、「律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです」と言っているぐらいです(7:12)。しかも、これはユダヤ人に対して言われた言葉ではなく、ローマ人、つまり異邦人にたいして言われた言葉です。「律法」が人を救うことができないのも、「律法」が悪いのではなく、私たち自身の内にある罪の性質のためだと言っています。
そして、信仰による救いを強調するゆえに旧約の「律法」に抵抗がある人でも、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(ヤコブ2:8等)という「律法」は、新約でも生きていることは、認めておられるはずです。イエスご自身が、「新しい戒め」として与えられた「戒め」も、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」でした(ヨハネ13:34)。少なくとも人の「悪口」を言う行為は、この「律法」をも違反する行為です。とくに、ヨハネは、同じイエス・キリストを信じる者を憎むならば、その人は神を愛していないとまで言っているぐらいです(Ⅰヨハネ4:20)。
さらに、キリストが私たちの罪のために死んでくださったのは、どの罪のためでしょうか。世の中の法律が定める罪のためでしょうか。それとも現代の価値基準に違反する罪でしょうか。いいえ、「罪とは律法に違反することです」(Ⅰヨハネ3:4)。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)等とあるように、キリストが私たちの身代わりに十字架で罰を受けられたのは、私たちの律法違反に対する責め、罰を受けるためでした。そうでなかったら、何の罪のために十字架に架かられたのでしょうか。なぜ、神のきよい御子が、罪深い人間のように苦しみ、死ななければならなかったのでしょうか。ですから、神に受け入れられるために律法を行うとしたら、それは、キリストの十字架を無意味にし、「神の恵みを無」にする行為です(ガラテヤ2:24)。同じように、神の「律法」を否定することもまた、キリストの十字架の価値を否定し、「神の恵みを無」にする行為であることに変わりありません。なぜなら、律法を行えていないにもかかわらず、義と認めてくださるのが「神の恵み」だからです(ローマ4:5~6)。行えなくてもよいとすることも、また、「神の恵みを無」にする行為なのです。行えなければ、罰を受けなければならないからこそ、キリストは十字架に架かかり、私の、あなたの身代わりにってくださったのです。
このように、人の「悪口」を言い、神の「律法」によれば、本来自分も有罪であることを認めないならば、それはイエス・キリストご自身を否定し、さばくことになる。そのことを覚えなければなりません。そうではなく、私自身が神の「律法」でさばかれるべきことを覚える時に、神の恵みがいかに豊かであるかを知ることが出来(ローマ5:20)、人の「悪口」を言う罪から守られるのです。
3、「悪口」を言う人は自分を神より高くしている
何より、人の「悪口」を言う行為は、自分が神の座に着き、自分を神よりも高くする行為です。なぜなら、「律法を定め、さばきを行う方はただひとり」(12節)、天地万物をお造りになった神おひとりであるにも関わらず、自分がことの善悪を「定め、さばきを行」っているからです。それでは、悪い行いを見ても放置していてよいのでしょうか。そうではありません。イエスご自身も、パリサイ人やサドカイ人たち、ご自分の弟子たちの間違いも歯に衣着せることなく指摘されました。しかし、イエスは、個人を人格的に断罪することは、決してなかったのです。罪を罪とすることと個人をさばくことは、まったく違います。私たちは、この二つを区別しなければなりません。
また、旧約聖書の「律法」を否定する人たちは、クリスチャンも含め、しばしば人をさばきます。その時、何によって人を罪に定めるのでしょうか。それは、自分が正しいと信じる基準です。つまり、神を差し置いて自分自身が律法となり、まるで自分が神になったかのように人を断罪しているのです。(普段優しい人が、突然切れるのもこのためです。普段優しいのは、本当に赦しているからではなく、自分の基準に従えば、自分に不利益をもたらさないからです。あるいは、自分が責められないために基準を緩くしているからです。しかし、ひとたびその人の基準をはずれ、損害を与えるような行為をされれば、激しく怒ります。その人自身が、自分より上のルールに従っていない分、弱さを自覚していない分、人の痛みを配慮できず、激しく怒ってしまい、制御できなくなるのです。)自分が行えるか行えないかで、神の「律法」の善し悪しをさばいてはならないのです。それこそ、神の「律法をさば」き、「律法の悪口を言」うことです。たとえ、自分にとって難しいことでも、だれも完全に守れていなくても、神がお定めになったものを否定するならば、それは神ご自身を批判し、罪に定めることになってしまいます。それこそ、「悪魔」がしていることです。私たちはこの「悪魔に対抗」すべきなのです(7節)。
しかし、神が「律法を定め、さばきを行う」(12節)ことを認めている人は、人をさばく前に、まず自分自身を神の「律法」でさばきます(参考Ⅰコリント11:31、マタイ7:4~5)。そのようにするときに、人の「悪口」は、出てきません。自分自身が罪人であるにもかかわらず、神の恵みによって救われたに過ぎないことを実感するからです。そして、そのような罪深い者を、キリストがいのちを捨てる程に愛してくださったことを思い起こすからです。
ですから、本当に何が正しく、何が悪いかを判断し、さばく能力と権威を持っておられるのは、神お一人であることを覚えていただきたいのです。神の「律法」によって、自分の心と行いを照らすならば、人の「悪口」を言えないことに気づきます。そして、自分の足らなさ、罪がわかればわかるほど、神がどれほどその私を愛してくださったかを知ることが出来ます。そして、隣人を愛する愛も増し加えられて行くのです。人の「悪口」を言う前に、まず、神の「律法」によって、自分を吟味する時を持つ。そこにこそ、本当の幸い、本当の解決、本当の平和の道があるのです。
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