みことばの糧64
知っているという思い込みが真実に対して目を閉ざす
イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」ヤコブの手紙5:16
知ることは、大変重要です。しかし、知っているといっても、ほとんどの場合その知識は、一部分に過ぎず、重要な部分を見落としていることが少なくありません。最も知っているはずの家族であっても、知らないことがたくさんあります。知らないということさえわかっていれば、謙虚になりますし、相手の言葉に耳を傾けようとします。しかし、知っているという思い込みが、相手の言っていることに耳を貸さず、心がすれ違ってしまう。そのようなことを多く経験します。自分より目上の人、経験のある人に対しても、自分は知らないことがあるという前提で聞かないと、学べることも学べない。「聞くは一時の恥。聞かぬは、一生の恥」ということわざも、そのような間違いを戒めたことばでしょう。自分の無知を認めて、自分が見ようとしていな事実に気づこうとし、聞こうとする姿勢は、誰に対してもどのような時にも、大変重要な姿勢です。
イエス・キリストが来られた当時、救い主を待ち望んでいたはずのイスラエル人が、イエスを拒んでしまったのも、これと同じ理由でした。彼らの「知っている」という思い込みが、真実を見えなくし、目の前にいる救い主、神なる方を拒んでしまったのです。聖書を読むときに、最も重要な姿勢の一つは、自分の無知を認め、自分が気づいていないこと、知らないことを聞こうとする姿勢なのです。それは、どれほど聖書を知っているか、信仰心が強いか、神学的知識が豊富かよりも、もっと重要なことです。聖書は、そのような人にこそ、まことの救い主を知らせてくださるのです。
1、イエスを知っていると思い込んだユダヤ人の無知
当時、どこの派閥にも属しないイエスが、神殿で堂々と教えていても、「議院たち」(サンヘドリン議会の議員。当時の政治的中心人物たち)は、イエスに何も言いませんでした(28節)。そのように国のリーダーたちがイエスに対して判断をくださいないのに苛立ったユダヤ人たちの一部は、自分たちでイエスが救い主かどうか判断をくだそうとします。自分たちの知識や経験で判断した結果、彼らはイエスは救い主ではないと結論づけました。それは、「キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはず」と言われていたのに、「私たちはこの人がどこから来たのか知っている」と思ったからです(27節)。第一に、この基準は、決して聖書そのものの教えではありませんでした。しかし、それより重要なことは、彼らが「私たちはこの人がどこから来たのか知っている」と思い込んだことです。イエスは、ガリラヤ地方のナザレ出身であり、大工の子である。彼らは、この知識を持っていました。だから、イエスの教えは、その地方の文化や教育、また大工としての教育や経験から出た教えであって、神からの者ではあり得ない。むしろ、外国の影響を受けた地域で育った人の言葉など、信用できない彼らは、そう結論づけたのです。そして、イエスも、「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています」と認められました(28節)。確かにその知識に間違いありませんが、それがすべてではありませんでした。彼らは大事な事実を見落としていたのです。
確かにイエスは、ナザレで育ちましたが、生まれたのはベツレヘムです。少なくとも彼らは、この重要な知識を持っていませんでした。探ろうとさえしませんでした。イエスの地上の父母であるヨセフもマリアもダビデの血筋であり、先祖の地ベツレヘムで住民登録をする際に、イエスが生まれたからです(ルカ2:4~5)。少なくとも、イスラエル人である彼らは、少なくともこの知識でも持っていれば、イエスが救い主だと気づけたはずです。なぜなら、42節で彼ら自身の中にも、「キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか」と言う人たちがいたからです。実際に、旧約聖書のミカ5:2に救い主はベツレヘムから出ると記されており、律法学者もまた、ミカ5:2によって救い主のお生まれの場所がベツレヘムだと導き出していました(マタイ2:4~6)。彼らは、この事実さえ知らなかったのです。知らないのに知っていると思い込む。この思い込みが、人の心の目を塞ぐのです。私もそうです。牧師として日々聖書を学んでいても、自分の思い込みで見落としていることが、数多くあります。聖書に向かうときには、いつも自分の無知を覚えます。そうしないと、勝手な思い込みで、自分の理想像を築き挙げ、自分の願いを語ってしまいます。それは、聖書から語っていたしても、自分の願望であって、救い主のことばではなくなってしまいます。
2、イエスのことばは自分から出たものではない
そのようにイエスを「知っている」と思い込んでいる彼らに対し、イエスは「わたしは自分で来たのではありません」と言われました。「自分で」と訳されている言葉は、直訳すると「自分から」と訳せる言葉で、源を意味する言葉です。つまり、自分が来たいから来たのではない。そして、イエスの教えも、言葉も、イエスのナザレ人としての経験や教育から出たものではない。そう語られたのです。彼らは、イエスの行いの本質、教えの本質に目を留めようとはしませんでした。どの派閥にも属さず、田舎の、汚れた人たちの影響を受けて育った人物から出た教えだから、その教えは間違いだ。聞いてはならない。そう結論づけたのです。
しかし、イエスのことばは、イエスを「遣わされた」方に語るよう委ねられた言葉です。そして、なのです。そして「その方を、あなたがたは知りません。わたしはその方を知っています」。これは、イエスが遣わされてきたのであれば、当然のことです。彼らがイエスを使わしたのが神だと信じられなかったとしても、万が一遣わした人物が人間であったとしても、彼らは「その方」を知りません。ですから、イエスの出自によってその言葉を聞こうとするのではなく、イエスのことばを通して、イエスを遣わした方がどのような方かを知るべきなのです。これは、人間に対しても同じです。自分の知らない人を知ろうとすれば、偏見を捨てて知っている人のことばに耳を傾けなければなりません。勿論、中にはだまそうとする人もいます。ですから、イエスのことばと行いに一貫性があるか。そこに注目することは重要な事です。しかし、そこに一貫性があり、間違いがないならば、私たちはイエスのことばを通して、イエスを遣わした方を知らなければなりません。
これは今の私たちもそうです。クリスチャンもそうです。くどいですが、牧師であっても同じです。私も神を直に知っているわけではありません。あくまでも聖書に記されたイエスのことばを通して、その生き方を通して教えられたのです。しかし、そこにも自分の勝手な願望や、自分の勝手な思い込みが潜んでいます。ヨブ記に出てくるヨブの友人たちも、誠意の人たちでしたが、彼らの神に対する知識も多分に思い込みに支配されていました。神は、ヨブに対してでさえ、あなたが神に対して無知であることを認めよと語られたのです(ヨブ38章以降)。
3、自分の無知・偏見を認めイエスご自身に耳を傾ける
ですから、イエスを救い主として信じていない人は、まずイエスのことばと生き方に一貫性と真実があるか。そこに偏見なしに目を留めて戴きたいのです。そして、すでにイエス・キリストを信じている方も、自分が神について知っていることはわずかに過ぎないこと、そしてそのわずかな知識でさえも、思い込みや偏見、自分の願望で歪んでいる可能性があることに目を向けて戴きたいのです。そして、イエスを遣わされた方、その方がイエスを通して語ろうとしておられることに偏見なしに向き合おうとする。その姿勢が何よりも重要なのです。(このような言い方をするのは、私がイエスを三位一体の神と信じていないからではありません。聖書が、イエスを遣わした方を信じることを通して、人は神を知るのだと教えているからです)。そのように自分の無知を認め、イエスを通して神に耳を傾ける者に、神は豊かにご自分を示してくださいます。この世で、罪に汚れず、愛に満と行動力に満ちた、実を結ぶ生き方、キリストに似た生き方へと導いてくださるのです。
本当の意味で神を知っているのは、遣わされたイエスご自身だけです。私たちは自分の無知を認め、常に聖書そのものに、そしてイエスご自身とその言葉に耳を傾けていこうではありませんか。そこに自分の思い込みがあるかないかを常に聖書から吟味し(自分の好みの箇所を引用するのではなく、聞きたくない箇所にも耳を開いて)、自分の知らないこと、気づいていないこと、教えられなければならないこと、そこに心を向けていこうではありませんか。
また人に対してもあらゆる事実に対しても同じです。今は、ネット社会で、情報をたくさん「知っている」と思い込んでいます。しかし、ネットを通して知った知識は、切り取られた一部だけの事実であったり、偏見にゆがめられた情報であることが少なくありません。そして、その情報がどのような人物から出たかさえ、ほとんど知らないことが多いのです。この「知らない」という事実を常に覚えながら、真摯に人と向き合い、情報に踊らされない生き方をしていきたいものです。
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