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2024年 イースター礼拝

2024年 イースター集会

三本の十字架
イースターは、イエス・キリストの復活を記念するキリスト教のおいわいの日です。
キリストの十字架と復活は、現代に生きる私たちにも大きな希望を与えるものです。聖書は、クリスマス以上に、キリストの復活の希望を伝えています。ご一緒に教会でイースターを祝いませんか。

わたし(イエス)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。―聖書―

3月31日(日)

  • イースター子ども会 午前 9:30~10:30
  • イースター礼拝 午前11:00~12:00 ライブ配信はこちら
  • イースター 夕礼拝 午後2:30~3:30 ライブ配信はこちら

※どの集会も参加費無料です。

イースターをご一緒に祝いませんか

 私たちは、様々な形で過去にとらわれます。過去にしでかした失敗、間違い、悪い行い等。失敗は成功の母とも言われるように、それらの経験を活かすことは大切です。しかし、そのことによって過去がなかったことにはなりません。その結果が変わるわけでもありません。どれだけ前向きに考えたとしても、その結果は一生ついてまわるものです。しかし、イエス・キリストの復活は、この点で私たちに希望を与えてくれます。過去の問題を直視しつつ、なおそこにとらわれず、新しく生きる道を開いてくださったのです。この復活こそ人が正直に、最悪の現実を受け止めつつ、なお前を向いて生きるための唯一の希望なのです。

キリストの十字架と復活が与える希望

無実のキリストが十字架につけられた不思議と人間社会の理不尽

約2,000年前、イエス・キリストは十字架に架けられて死なれました。これは歴史上の事実であり、この点を問題視する人はほとんどいないでしょう。しかし、この十字架は不可解です。なぜなら、当時ユダヤ地方の総督であったローマ人ピラトが取り調べをしても何の罪も見つからなかったからです。それにも関わらず、ローマ帝国でさえ滅多に実行しない残酷な刑、十字架刑が執行されたのは、それほどイエスがユダヤ人の政治的指導者、宗教的指導者のねたみを買ったからでした。支配者の立場であるピラトも、治安維持のため、また自分の立場の都合上、彼らの訴えを退け続ける事が出来ませんでした。そのためにまったく罪を犯していない人物が、よほどの大罪人に対しても執行されない十字架刑に処せられることとなったのです。

キリストの十字架によって浮き彫りにされた現実と十字架の意味

この出来事は、人間の醜さ、この世の理不尽さ、不公平さを如実に示しました。また、聖書の神を信じているつもりのイスラエル人自身でさえ、神に反抗する心を持っている事実をえぐり出しました。しかし、この出来事は不意に起きた出来事でも、神にとって不都合なできごとでもありませんでした。むしろ、この出来事の約700年前に記された預言書、イザヤ53章の預言どおりが実現したのです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」(イザヤ53:4~5)。

イエス・キリストの十字架は、まじめな人の内にさえ潜む、人間の心の醜さ、自己中心性を浮き彫りにしました。それと同時に、神はその罪の責任から、人間を救うためにご自分の御子を十字架につけてくださったのです。まるで、大罪人のように。私たちの罪を、御子に負わせるためです(Ⅱコリント5:19, 21)。

キリストのよみがえりが拓く新しい道

そして、神は、そのイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。それは、信じる者が過去の罪にとらわれず新しく生きるためです。神は、決して過去を曖昧にしたり、水に流す方ではありません。過去の失敗、過ち、悪い行いの結果を受け止めつつ、なお新しく生きる。キリストの十字架と復活は、そのためだったのです。

聖書が語るイースターの希望をご一緒に学びませんか。