みことばの糧22
信仰の産み出す行いが人を幸いにする
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
ヤコブの手紙1:25
聖書は、救いは行いにはよらず、恵みにより、信仰によって救われると教えます(エペソ2:8等)。しかし、信仰は神からの祝福を受け取る通り道であって、目的ではありません。信仰は、神からの救いを受け取らせる通り道であります。そして信仰は、必ず信じる者に行いを産み出し、その信仰と行いが一体となって、神からの幸いを受ける者となるのです。
神は、旧約時代(紀元前)のイスラエルの民に、律法をお与えになりました。そこには、神礼拝のあり方とともに他者を大切にするあり方、困窮者や障がいを持つ方の尊厳を保ちつつ、自立のための支援を定める等、三千五百年前に書かれたとは思えないほどの優れた内容がありました。しかし、どれほど優れた律法であっても、人間の力(心)ではそれを完全に実行すること、実行し続けることはできない。そのことを千年以上にわたるイスラエルの歴史は、明らかにしました。しかし、そのような人間であっても規則によって縛られるのではなく、自分から行えるような心と判断力を与える。それが神の救いだったのです(エレミヤ31:33)。救いは、行いによらず信仰によります。しかし、救いは、神の助けと聖霊により、信じる人に信仰による行いを産み出すのです。この行いもまたその人を幸いにする、素晴らしい救いの結果の一つなのです。
しかし、人の弱さとしてイエス・キリストを信じているにもかかわらず、キリスト教的な活動にまどわされて、本来の救いの目的と幸いを見失ってしまうことが少なくない。そこで、ヤコブは1:26でこう言うのです。「自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです」。
1、信仰的活動がむなしくなる時
信仰による救いは、「律法」から私たちを自由にします。それは、形式的・外面的規則からの解放です(Ⅱコリント3:6)。禁止されているからしない、命令されているからしなければならない、このような考え方は決して人を救いませんし、人の生き方をよくしたりはしません。これは旧約聖書に記された神の律法でも同じです。しかし、クリスチャンは時々、旧約の律法そのものが悪いように思い、旧約の律法を行わないことが自由だと勘違いしてしまいます。しかし、律法から自由になったと思いながら、実際は礼拝出席の熱心さ、教会の活動への参加度合い、活躍の度合い、献金や奉仕、それらのものでその人の信仰の価値をはかってしまうことが少なくないのではないでしょうか。それは、旧約聖書の律法を否定しながら、新たな律法主義(律法を行うことによって神に受け入れられるという考え方)を生み出しているのと同じです。キリスト教的活動という外面的な行動が、新たな律法となってしまっているのです。
それに対しヤコブは、「自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしい」(26節)と言います。ここで「宗教」と訳されている言葉は、神を信じる者の外面的行為、儀式、習慣等を表すことばです。どれほど、キリスト教的活動に熱心であっても、「自分の舌を制御」できていないなら、その人の信仰生活は意味がない。ヤコブは、はっきりとそう断言しているのです。預言者イザヤも、同じような問題を指摘しています(イザヤ1:11~17)。
2、信仰による自由 ~自分の舌を制御できる自由さ~
キリストの救いを本当に信じているならば、「自分の舌を制御」しようと必死で取り組むはずなのです。なぜなら、口からことばほど制御しにくいものはなく、人間の罪の性質を解き放ってしまうものはないからです(3:2)。ヤコブは、「わたしたち」つまり、信仰を持っている人でさえことばで失敗せず、ことばを完全に制御することは至難の業だと告白しています(3:2~10)。なぜなら、私たちの内に住む罪の性質が、ことばによって形をなして悪さをするからです。人の誘惑なる言葉、陰口、真実が確認できないいい加減な言葉、高慢、思いやりのないことば、誰かを引き下げることで自分を高めることば、人や神をおとしめることば等。私たちは、ことばで失敗しますし、ことばで悩み、ことばで苦しみます。しかし、キリストによる救いは、この罪の支配から私たちを解放するために与えられました(ローマ6章)。聖書を正しく信じているならば、私たちがことばを制御し、自分の舌に罪を犯させないように制御するために必死で取り組むはずなのです。そして、神がそのために知恵を与え(1:5)、罪に打ち勝ち、ことばを制御する力を与えてくださるのです(参考ピリピ3:12~13)。このように自分の舌を制御できるところに自由があるのです(25節)。正しい行いをしなくてもよいことが自由であると考えるならば、その人はかえって罪に支配されてしまいます。神がくださった、そしてさらに与えようとしておられる自由は、自分の舌に罪を犯させず、制御する自由なのです。キリストを正しく信じる者に、神はこの自由を与えてくださるのです。むしろ、この自由を求めて葛藤せずに、外面的な活動だけで満足したり、人を裁いたりするならば、その人は、「自分の心を欺いて」おり、その人の活動も神に受け入れられず、何も産み出さない「むなしい」ものだと聖書は言っているのです(27節)。
3、信仰による自由 ~弱い立場の人に仕える自由~
さらに、ヤコブは、「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ること」だとも言います(27節)。これは、キリスト教は孤児院を開くべきで、孤児院を持っていない教会は虚しいということではありません。そのように表面的な活動で信仰を判断すること自体、律法主義に他なりません。そうではなく、信仰は、このような活動を産み出すものだと言っているのです。
この御言葉を正しく理解するためには、当時の「孤児ややもめ」の立場を知っておく必要があります。当時の社会において「孤児ややもめたち」というのは、社会的にも価値が認められず、経済的にも困窮していた人たちです。ですから、当時の社会にいる人たちとって、関心にも上らず、助けるだけ損という思いもあったと思われます。しかし、2:5にあるように神は、社会的地位や身分、持ち物、能力等で人の価値をはかる方ではありません。この世で貧しく、価値が認められない人であっても、神は平等に救いを与え、神の御前に富む者、つまり価値ある者としてくださる。その事実を知っているならば、自分よりも神の御前に優れているのに、自分よりも苦しんでいる人、低められている人がいたならば、その人が高められるように、少しでも助けになるように願うのではないでしょうか。それが神の知恵であり、信仰なのです。
4、信仰による自由 ~この世の汚れに染まらない自由~
さらに、真の信仰が産み出す生き方は、「この世の汚れに染まらない」生き方です。これは、誤解されやすい点ではありますが、この世離れするとか、世事に疎くてよいという意味ではありません。イエスご自身も30歳まで大工として生きられ、弟子たちも漁師を初めとして、様々なこの世の経験をしてきた人たちでした。初代宣教使のパウロもまた、天幕職人をしながら福音を伝えました。ですから「この世の汚れに染まらない」というのは、社会から一歩引くということではありません。積極的にこの世で生きつつ、お金を第一にしたり、お世辞や偽りで自分を守ったり、お金や強者にこびたり、下品な冗談、陰口、不品行、無秩序等この世の汚れた考え方、生き方に巻き込まれないということです。この世を神がご支配していることを信じず、目に見える結果だけがすべてだと考えれば、その汚れから逃れる術はありません。しかし、神のご支配が確かにあると信じるならば、神に信頼し、見えない所で見ておられる神の御前に誠実に生きること、人に褒められるためではなく、人に隠れたところで良い行いをすること、そのような生き方こそ豊かに報いを受けることを知っているはずです(マタイ6:1~24)。
そのように信じている人は、この世で積極的に生きつつ、汚れに染まらないよう自分を守ることができます。隣人を愛しつつ、大事なところでは線を引きます。利害関係に引きずられず、自分を犠牲にしても人を愛することもあれば、不正なことであれば不利になっても正直な意見を言うこともあります。イエス・キリストはまさにそのような方でした。当時、汚れ(けがれ)と言われ、誰もが避けて通ったツァラアト(隔離が必要な皮膚の伝染病)の人を、あえて患部に手を触れていやされました(ルカ5:13等)。しかし、自分を王として担ぎ上げようという人からは距離を置き(ヨハネ6:15)、宗教的活動を理由に親孝行を免除していた人たちについては、明確にその問題を指摘しました(マルコ7:10~13)。この世を愛し、積極的に触れ、時に肉体的には汚れつつ、なお汚れに染まらなかったのがイエスだったのです。
このような生き方こそ、救い主イエスが生きた生き方であり、神の報い、祝福が豊かな生き方であることを聖書は教えています。この知識を持ち、信じている人は、規則で禁止されているからではなく、そこに価値があると知っているからこそ、世の汚れから自分を守りつつ、隣人に喜んで仕えようとするのです。そのために自分が汚れてもです。このような生き方こそ、本当に自由な生き方であり、神に祝福される幸いな生き方なのです。
5、まとめ
今まで見て来たように、本当の救い、イエス・キリストを信じる信仰、恵みにる救いを信じる信仰は、行いを産み出すものです。自分の言葉を制御し、弱い立場の人に仕え、この世の汚れから自分を守る生き方を産み出していきます。しかし、充分にできるという意味ではありません。パウロ自身、こう言っております。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)。このように常に追い求める者を、キリストは捕らえ、助け、実行させてくださる。そこに救いが保証する希望があるのです。今の自分で満足するところには、信仰はありません。キリストは私たちを愛し、罪のないご自分を十字架につけることによって、私たちの罪を赦す道を開いてくださいました。その罪の赦しを励みに生きる者は、世の評価に縛られずにすみます。そして、行いによってではなく、キリストの十字架によって救っていただいた事実があるので、たとえ今できていなくても、すぐにできそうになくても追い求め続けることができるのです。神は、できたらから愛してくださったのではないからです。出来ない者を愛し、出来るように導き、助けてくださる。この信仰こそが自分の内にある罪の性質から、そして世の曲がった力から私たちを救い、真実な行いを産み出す非常に大きな力となるのです。
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