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みことばの糧36

2023年2月12日

何をよりどころに必要な行動を判断し実行するか

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。

ヨハネの福音書6:4~5

 この世には、必要だけれども、正しいことだけれども、実現困難な課題が数多くあります。しかも、ときにその問題を避けようとすると、ごまかし、偽り、不公平、不正に妥協したり、放置したりすることにつながることさえあります。とくに聖書のことばに従おうとするとき、多くの困難が立ちはだかることが少なくありません。

 しかし、その時に、必要だけれども困難な目標を成し遂げるために必要なものは、何でしょうか。お金でしょうか。数の力でしょうか。賛成者の多さでしょうか。それとも、能力や運、あるいは気持ちの持ちようでしょうか。冒頭の御言葉は、この点についてイエスが弟子の「ピリポを試すため」に問かけられたことばです。なぜなら、必要だけれども困難な目標を成し遂げるために必要なものをどこに求めるかが非常に重要な問題であり、その答えが、その人の人生を左右し、本当の問題に勝利するかどうかを決める決定的な要因でもあるからなのです。そして、本当に神を信じるとはどういうことかという点でも重要だからです。

1、必要だけれどもあまりに困難な状況を前にして

 当時、イエスを求めてついてくる群衆が大勢いました。それは、イエスがなさった奇蹟を見たという非常に表面的な理由でした。しかし、それでもイエスご自身を求めて、へんぴな所までついて来た群衆のことをイエスは、気に掛けられます。主な移動手段が徒歩であった当時、帰りの体力を維持するためにも、食料は非常に重要な問題であったからです。群衆は、そのことも忘れるほど前のめりでしたが、イエスは常に全体を見、配慮されていた姿を見ることが出来ます。

 しかし、そうは言っても食料をどこから、どうやって、しかも十分な量を調達するかという課題がありました。と言いますのは、当時そこには男性だけで五千人はいたからです(10節、参考マタイ14:21)。女性や子どもを含めると一万人を超えていたかも知れません。必要ではあるけれども、その必要はあまりにも大きい。そのような状況で、イエスは弟子のピリポに問いかけられたのが冒頭の御言葉なのです。

2、どこから必要を手に入れるか ~持っている物では足らない現実~

 「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」(4節)。このイエスの問いに対して、ピリポはこう答えます。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」(6節)。これは、冷静で分析な答えです。自分たちの手持ちの金額とパンの金額を考え、必要な人数で割ったのです。これは、非常に重要なことです。実際に、気持ちだけ助けたいという気持ちで動いて、成し遂げられなかったり、不公平が出たり、経済的に破綻すればかえって問題が大きくなるからです。そして、ピリポが計算した結果、その答えは、つまり手持ちのお金ではとても「足りません」という答えでした。だから、私たちで「この人たちに食べさせ」ることはできない。これがピリポが導き出した答えでした。

 しかし、イエスはピリポに何を問われたのでしょうか。イエスが語られたことばは、「どこからパンを買って来て」と言われたのです。イエスの問いかけの中心は「どこから」にあったのです。その問いかけに対して、ピリポは無意識に、そして当然のように「パン屋から」買ってくると考え、それに必要な「お金」を計算しました。そして、計算した結果足りないということがわかり、できないという結論に達したのです。では、本当に不可能だったのでしょうか。

3、持っているわずかなものを感謝し用いられるイエス

イエスとピリポの会話を聞いていた弟子の一人が、「大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいる」ことを報告します(9節)。おそらく少年自身も自分のパンと魚が役に立てればと差し出したのでしょう。その少年の心はすばらしいですが、「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」というのが、弟子たちの結論でした。確かに少年にとって「大麦のパン五つと、魚二匹」は貴重な食料でしたが、一万人前後の人たちを目の前にして、この数では雀の涙ほどにもなりません。ところが、イエスは人々が「たったこれだけ」としか思わない五つのパンと二匹の魚を大切に受け取り、父なる神に「感謝の祈りをささげ」られたのです(11節)。イエスにとってそのパンと魚は、「たったこれだけ」ではなく、神ご自身が少年を通して与えてくださった貴重な尊い食料だったのです。そして、そのパンと魚をイエスが「分け与え」られたところ(11節)、分けても分けてもなくなりません。ついにそこにいた大勢の群衆が「望むだけ」食べ(11節)、「十分に食べ」(12節)、なお、「余った」のです(12節)。イエスは、その余ったパンきれさえ「一つも無駄にならないように」集めさせます(12節)。そして「余ったパン切れ」だけでも、大かごで12かごもあったのです(12~13節)。人々が「たったこれだけ」と思った少年の持ち物が、必要を満たして余りあるほどに用いられたのです。

4、神の御心にかなうなら持っているもので成し遂げられる

 この出来事は、教会では「五千人の給食」と呼ばれる有名な出来事で、四つある福音書すべてに記されているほどです。しかし、これは単なる奇蹟では、ありませんでした。なぜなら、パンが増える奇蹟は誰も見ていないからです。あくまでも五つしかないパンを割いて分けていく中で、いつの間にか五千人以上、おそらく一万人以上の人たちの空腹を十分に満たしたのです。私たちは、この出来事に次のいくつかの事実を見ることが出来ます。イエスを信じ、イエスに従っているならば、私たちの持たないものではなく、持っているもので必要が満たされること。それがわずかに見えても、それを感謝すべきこと。その持っているものを分け合うこと。そして、その持っているものをイエスが祝福し、「分け与え」られる時に、必要を満たして余りある結果をもたらすということなのです。

 つまり、本当に重要なことは、神の目の前に必要なこと、大切なこと、正しいこと、聖書が教えていることであるならば、私たちは持たないものではなく、持っているもので成し遂げられるということなのです。確かに、私たちは、計算もせず、後先顧みずに無謀な行動をすべきではありません。そのようなことは、聖書の教えではありません。しかし、本当に必要であるならば、自分たちの持っているものは、神がお与えくださった大切なものであると感謝すること。そして、その持ち物を神が用いてくださると信じて、小さな行動でも実行に移していくこと。互いに、その持ち物と行為を尊ぶこと。そのように行動した時に、最初は小さな小さな働きに思えても、神ご自身がそれを祝福し、私たちの思いをはるかに超えた結果を与えてくださるということなのです。

5、成し遂げてくださる神を信じて行動を選択し実行に移していく

 私たちもまた、本来あるべき姿、本来取るべき行動ががわかったとしても、その行動が取れない理由が頭を駆け巡り、行動を縛ってしまいます。勿論、そのあるべき姿と思ってい姿自体が狭く独善的な考えであることも少なくありません。クリスチャンも、自分の考えが本当に聖書が教えていることか、神のためと言いつつ、自分の願望に囚われていないか吟味する必要があります。しかし、それが本当に必要であっても、聖書にかなうことであっても、多くの困難な理由が立ちはだかってしまいます。世の中は変わらないから、自分一人の力ではどうにもならないから、自分はたいした能力もないから、応援してくれる人も少ないから、周りの人がどう思うかわからないから…。そして、「たったこれだけ」では何もできない、結局流れに身を任せるしかない、と判断してしまうことが多いのではないでしょうか。しかし、そのことがどれだけ多くの問題を放置し、あるいはさらに悪化させてしまうことでしょうか。

 しかし、聖書は確かに神がおられることを告げています。そして、神の御心にかなうこと、隣人を愛すること、公正なこと、誠実なこと、なすべき正しいこと、とくに聖書のことばに従うこと、それらを救い主を信じつつ行動に移していくときに、神ご自身が成し遂げてくださることを教えています。その時に、聖書は決して無鉄砲な、持てる力を度外視したやり方を勧めてはいません。そうではなく持っているもので成し遂げられることを教えています。自分や自分たちが持っているものを神から与えられものと感謝すること。そして、自分の願いではなく、きよい神ご自身の御心がなることを求めること。そして、神に信頼して祈りつつ、持っているものをもって行動に移していく。その過程を通して、神ご自身が必要を満たし、有り余る結果を与えてくださるのです。ときに、その結果を見るには長い時間がかかります。長いトンネルを通るときもあります。けれども、私たちの持てるもの、私たちの小さな働きを通して、必ずご自身が成し遂げてくださる。それがイエス様が五千人の給食を通して示されたことです。これを信じるのが信仰なのです。神を信じるということなのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)という御言葉は、まさにこのことを教えています。そして、このように御言葉によって生きるところにこそ、人間の本当の価値、まことのいのち、永遠のいのちがあることを聖書は教えているのです。

 あなたは、何をよりどころとして自分の行動を決定しておられるでしょうか。ぜひ、聖書に示された神ご自身の目に優れたこと、神ご自身がそれを成し遂げてくださること。そのことを根拠に行動を選択し、そこに生きて行こうではありませんか。そこにこそ神のいのちがあります。そこにこそ、本当の解決と喜びがある。そのことを聖書から信じていただきたいのです。