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みことばの糧58

イエスのことばは人の心の底にあるものをあらわにする ~神の救いの確かさ~

それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。ヨハネの福音書6:67~68

 キリスト教と呼ばれる集まりはたくさんあり、クリスチャンと呼ばれる人たちもたくさんいます。けれども、洗礼を受けているから救われているわけではありません。教会に所属しているから、救われているわけでもありません。神の救いは、その人自身の内側を新しくします。その違いは、人の目には見ることが出来ません。けれども、神のことばは、その違いを明らかにします。そのために聖書のことばは、時々人を躓かせ、信仰から、あるいは教会から引き離してしまいます。しかし、そのことによって、本当に救われた者が、救いを失ったり、信仰を失ったりすることはありません。むしろ、神の救いがどれほど確実で、力強いかが現れてくるのです。

 6:52以降のイエスのことばによって、多くのイエスの弟子たちが「離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくな」りました。しかし、本当の意味で救い主を信じていた人は、残ったのです。そして、とても重要な告白をしました。神は、本当の信仰を見分け、その人を他の人と区別し、最後まで責任を持って守ってくださる方なのです。

1、イエスから離れなかった人たち

 イエスは、6:52以降で、敢えて弟子たちが誤解するようなことばを語られました。まるで、イエスの肉体を口で食べ、イエスの肉体に流れる血を飲まなければ、いのちはない。そのように誤解してしまう、ことばを語られたのです。勿論、そのような意味ではありません。イエスは、ご自分の十字架が、人々の罪の身代わりとなり、神の刑罰から救うことを教えられたのです。また、イエスが一人一人に、その人が生まれて来た本当の意味、役割を果たす生き方ができるよう、一人一人に役割を与え、遣わしてくださる。そのことを教えられたのです。けれども、そこに関心のない人たちは、イエスのことばを誤解しました。そして、もう二度とイエスのところに戻ってきませんでした。彼らは、本当の意味で救い主を信じては、いなかったからです。

 しかし、それほど聞くに堪えない言葉を語られたにもかかわらず、イエスのもとに留まった弟子たちがいました。その留まった弟子たちの中には、十二使徒全員が含まれていました。それは、彼らがイエスのことばを充分に正しく理解出来たからではありません。ペテロは、次のように告白しました。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」(68節)。イエスのことばは、本当の信仰を持っていない人たちは、離れさせましたが、本当にイエスを信じた人は、決して離れることなく、むしろたとえ少人数となっても、信仰に堅く立っていったのです。この世は、心の中を見ることは出来ません。しかし、イエスのことばは、本当に信仰者を明らかにしたのです。そして、本当の信仰を持った人は、決して救い主から引き離されたりしないのです。

2、イエスから離れなかった人たちの信仰

 では、離れなかった人たちは、他の人よりも優れていたのでしょうか。何か特別な理解力や、力をもっていたのでしょうか。いいえ、そうではありません。ペテロは、イエスのことばを完全に理解出来たわけではありません。しかし、たとえ充分に理解出来なくとも、その「ことば」なしに生きることは出来ない。その「ことば」に従って行く時に、必ず生きることができる。そのように信じたのです。イエスのことばに従って、ガリラヤ湖を渡ったとき、危険な突風の中でも、無事に「目的地に着」けたように(21節)。この世の仕事でも、自分が理解出来ることだけ従っていたら、仕事になりません。重要なことは、自分より優れた人の言葉を信頼し、そこの従って生きることです。十二弟子は、他の弟子たちより優れていたわけではありません。ただ、彼らは(実際には十二弟子すべではなく、イスカリオテのユダを除く11人)、イエスのことばにこそ、真実があり、いのちの道があると信じていました。だからこそ、どのようなことがあっても、決して躓かなかったのです。けんかすることもあり(ルカ22:24)、失敗もし(ヨハネ18:17~27)、イエスに逆らってしまい、イエスに厳しく叱責されたこともありました(マルコ8:33)。それでも、イエスから離れることは、決してありませんでした。彼らは、イエスだけが「永遠のいのちのことば」を持っておられると信じていたからです。どれ程、自分が弱く、間違っていたとしても、あるいはイエスのことばが理解出来ない時があったとしても、他に選択肢はなかったのです。

 同じように、今も、このようにイエスのことばそのものに、信頼を置く人が救われているのです。教会の人数だとか、活動内容、心の満足感、牧師や集っている人の人間的魅力、願いがかなう等、そのようなものに期待し、頼っているだけの人は、この信仰がありません。そのような人は、聖書のことばに躓きます。

 しかし、他にどれだけ弱さ、問題を抱えていたとしても、イエスのことばそのものに信頼している人は、決して信仰を失うことはなく、聖められ、成長し、強くされていきます。私たちは、イエスのことばそのものに期待し、信頼すべきなのです。その人が救いを失うことは、決してないのです。たとえ、少数派となり、苦しむことがあっても、神がその人とともにおられ、神がその人を守ってくださるのです。

3、イエスご自身とそのことば以外に大きな期待を寄せない

 ですから、本当に大切なことは、本当にキリストを信じるというのは、キリストのことば以外に、大きな期待を寄せないということです。お金、友人、仕事、生活力等必要なものは、たくさんあります。しかし、それらが生きる意味を与え、本当の必要を満たすわけではありません。それらは、重要なものですが、時に誘惑なり、惑わしとなり、失望の原因となることもあります。さらに、教会の活動や、集っている人、自分の願い、教派等、そういったものにも、必要以上の期待を寄せないことが重要です。私たちが、本当に信頼しなければならないのは、イエスご自身のことばです。そして、その言葉を一言も漏らさずに、すべて実行し、成功させたイエスご自身です。ここに信頼を置いている人は、どのような時でも、決して致命的な問題に陥ることはありません。倒れることはあります。今は、他の人より強いわけではないかも知れません。しかし、起き上がれないような倒れ方はしません。むしろ、神の助けによって、やがて立ち上がり、強くされ、豊かな実を結ぶ者とされていくのです。イエスご自身のことばの正しさ、確かさ、愛の深さ、力強さ。そこに信頼を置いて頂きたいのです。そのような信仰を持つ人の信仰さえも、神が強めてくださいます。困難は、経験するかもしれません。少数派として生きなければならない時もあります。しかし、最終的に神の救いの確かさを、あなた自身を通して、必ず示してくださいます。イエスの弟子たちが、そうであったように。