みことばの糧59
幸いな結末を得るために必要な忍耐と希望
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。ヤコブの手紙5:11
このヤコブの手紙は、大変な試練の中にある人たちに向けて書かれた励ましの手紙です(1:1~4)。その試練を乗り越え、神が約束してくだった幸いを得るために必要なものは忍耐であり知恵である。ヤコブはそのことを伝えて来ました。忍耐が必要なのは、苦しみが続き、目に見える解決や希望がなかなか見えないからです。その時に、人はしばしば二つの誘惑に陥ります。一つは、お金、人脈、人気、派閥、権力などの、この世の力に頼って、手っ取り早い解決に手を出してしまうことです。当時は、とくにお金や権力の力が今以上に顕著で、有力者の好意を得ることが何よりも必要と感じてしまう状況がありました(2:1~4)。今で言えば、スマホなどネットの影響力が大きいかも知れません。
第二の誘惑は、「互いに文句を言い合」い、争ってしまう誘惑です(参考5:9、4章)。物事がなかなかうまくいかなかったり、問題が起きたりすると、最も身近な家族や仲間のせいにしてしまい、足を引っ張り合い、責め合ったりしてしまいます。
この二つの誘惑に陥ることで、かえって問題を大きくしてしまうことが少なくありません。とりあえず問題を乗り越えたように思えても、やがて大きな代償を支払わなければならなくなります。試練を乗り越えるために本当に必要なのは、神の約束を信じ、忍耐することだと聖書は教えています。キリストを信じ、忍耐すれば必ず幸いな「結末」を勝ち取ることが出来る。聖書と聖書に記された多くの信仰の先輩者たちの人生が、そのことを確かに保障しているのです(11節)。
1、世の力に頼る誘惑
世の中には、様々な便利なものや方法が存在します。それらがすべて悪いわけではなく、むしろ必要に応じて用いることは、大切です。しかし、頼るとなると問題は別です。頼れば必ず、何らかの弊害が伴うものです。ヤコブ書が書かれた当時、「金持ち」は、ローマ帝国において力を持ち、彼らの機嫌を取れるか、損ねるかは、当時の人たちの生活を大きく左右しました。とくに、2:2で触れられている「金の指輪をはめた」人たちの社会的影響力は大変強く、当時の教会にとっても無視できない存在になっていたのでしょう。けれども、彼らに頼れば、神の目に尊くても、貧しい人を無視することになります。金持ちに頼ることは、同時に彼らの価値観、支配原理を受け入れることにもなる。それは、聖書の教えを破壊し、人間の尊厳をも損なう危険な力でもあったのです。
さらに、5:1~6で彼らの持つ危険性をヤコブは解き明かします。当時、クリスチャンでさえ金持ちのもつ力を恐れ、あるいは頼ろうという誘惑がありました。しかし、彼らの持つ富は、決して魅力的なものではなく、むしろあわれなものであることをヤコブは解き明かします。
当時の金持ちは、労働者に支払うべき対価を節約しながら、自分の力を増し加えたようです(4節)。そのような「富」、きらびやかな「衣」、「金銀」は、当時の社会において大きな力を誇りました。しかし、それらは、神の御前では、彼らが当然支払うべき対価を惜しんだ証拠でもありました(2~3節)。彼らがその富を蓄えれば蓄えるほど、彼らの死後、彼らにくだる神の刑罰もまた蓄えられていることを意味しました。また、彼らがその富で満足を増し加えることは、家畜が太れば太るほどそれは、食肉としての価値を高め、自分の滅びを意味したように、その満足は、神の刑罰が間近に迫っていることの証しでもありました(5~6節)。
このように、私たちはこの世の力の便利さだけではなく、その便利さが何かを犠牲にしてなり立っていないかに目を留めなければなりません。何かを犠牲にして成り立つ便利さに頼るならば、自分もまた加害者に加わります。そして、犠牲者の叫びを神が聞かれたならば、その犠牲に対する報いも、受けた便利さや満足に応じて受けなければならない。そのことを意味する。この点を見抜くことこそ、ヤコブの教える知恵なのです。便利さそのものが悪ではありません。しかし、神に信頼せず、この世の力に頼るとき、このような危険性が背後に隠れている場合が多分にあることを覚えなければなりません。そこには手っ取り早い解決や満足があるかもしれません。しかし、手っ取り早い解決と満足がもたらす代償もまた大きいのです。
2、互いに文句を言い合う誘惑
これは、多くの人が実感する誘惑ではないでしょうか。私たちは、ものごとが思うように行かず、なかなか求める結果が得られないとき、むしろ問題が続くと、互いのせいにし、文句を言い合ってしまう誘惑に陥ります。そして、本来は最も身近な仲間である家族や同僚、兄弟姉妹にその矛先が向かってしまうのです。本来、彼らこそ大切な人たちであるのに、その人たちと争い、憎み合ってしまうとしたら、これほど悲しいことはありません。しかし、現実にはこうなってしまうことが、いかに多いことでしょうか。
ヤコブは、この誘惑に陥らないように「見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます」と警告します(9節)。神がおつくりになった人間に対して文句を言うことは、つくり主に対する文句でもあります。何より、イエス・キリストを救い主として信じた人は、神にとってご自分の御子を犠牲にして買い取った程の尊い宝です。その人に文句を言うならば、神ご自身が裁かれる。このことを私たちは覚えなければなりません。そうしますと、クリスチャンは罪赦されたのだから、神の裁きを恐れる必要はないのではないか、そう思う人もいるかも知れません。しかし、聖書の教えはその逆です。赦された立場だからこそ、人を裁く者に対する神の怒りを恐れなければならないのです(マタイ18:21~35)。罪が赦されているということは、神がそれほど大きな犠牲を払ってくださったということです。それにも関わらず、神が払ってくださった犠牲と比べれば小さな犠牲のために怒り、大切な兄弟姉妹、仲間に矛先を向けるならば、神は、その赦しを思い直し、本来の罰をお与えになったとしても当然だと言わなければなりません。
この事実に目を向けるとき、私たちは「互いに文句を言い合」う誘惑から守られるのです(9節)。苦しい時こそ、身近な人に、とくに兄弟姉妹に文句を言うことを恐れなければならない。ここに神の知恵があるのです。
3、幸いな結末を約束する神に希望を置いて忍耐する
それでは、善を行っても結果がでず、苦しみが続くとき、私たちはどこに希望を置けばよいのでしょうか。聖書は「主が来られる時まで耐え忍びなさい」と勧めます(7節)。約束の幸いな結末を得るのに必要なのは、忍耐なのです(7節、参考ヘブル10:36)。
しかし、忍耐して本当に良い結末に至れるのでしょうか。そのような兆候はどこにも見られない。むしろ、問題は悪化しているように見える。ここで多くの人はしびれを切らしてしまいます。旧約聖書の時代もそうでした(出エジプト5章、20:3~5、Ⅰサムエル13:8~13等)。しかし、ヤコブはこの忍耐を「大地の貴重な実り」のために耐え忍んで労苦しなが待つ農夫の忍耐に喩えます。麦は蒔いても、穂に実が入るまで何の報いもありません。とくにパレスチナでは雨が少なく、「初めの雨」(7節)(秋に降るまとまった雨)が降らなければ蒔いたたねもなかなか芽が出ません。「後の雨」(7節)(春の収穫期前に降るまとまった雨)が降らなければ、成長も遅く実が入る望みがないように見える。それまで、畑を耕し、種を蒔き、雑草を抜き、世話をしても何のかいもないように見えるのです。しかし、そのように何のかいもないように見える働きをした人と、しなかった人の間には、「初めの雨」、「後の雨」が降ったとき、大きな違いが出ます。忍耐して誠実に働いた人は、この二つの雨により急激な成長を見ることができ、最終的に豊かな収穫にあずかることができるのです。
同じように、私たちは結果を得ようと焦ってはならない。必ず神の時がある。その時まで、この世の手っ取り早くても大きな代償を伴う力に頼らず、互いに文句を言ってはならない。そうではなく、地道に誠実に御言葉を行い、善を行っていくならば、時至ったときに豊かな報いを受けることになる。そこに希望を置くように教えているのです。旧約の信仰の先輩者たち、モーセ(出エジプト)もヤコブ(ラバンのもとでの20年間の労苦)もダビデ(サウルによる迫害と逃亡生活)もヨブ(サタンに打たれ財産・家族・健康・容姿・人望のすべてを失って長く苦しんだ)もみな、このように先の見えない長い苦しみの後に、幸いな結末を戴いた人たちだったのです。
このように神の約束を信じ、誘惑に陥らず、この世の力に頼らず、互いに文句を言わず、地道に御言葉を行って労苦する。このような生き方こそ、聖書の教える信仰なのです。このような生き方に価値を見いだせるのが神の知恵なのです。この聖書の教える知恵に従って、神の約束を信じ、今を地道に生きて行く。このような生き方こそ、最も幸いな生き方です。
今は、本当の良いニュースの少ない時代であり、なかなか結果が出ない時代です。しかし、神はこの時代に生きる私たちの歩みを通しても、多くの報いを約束してくださっています。この神の約束を信じ、目に見える結果に一喜一憂するような誘惑に陥らず、地道に生きて行きたい者です。ここにこそ、最も確実で消える事のない、どの時代にも地域にも人種にも左右されない、力強い希望があるのです。
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