みことばの糧68
事実よりも力関係がものを言うこの世の罪
議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。ヨハネの福音書7:48~49
現代は、科学的で客観的な判断ができる時代。私は、科学的・客観的な根拠に基づいて行動していて、昔の人よりも判断力がある。そう思っている人が多いのではないでしょうか。しかし、本当にそうでしょうか。ネットの現実を見ても、事実かどうであるかよりも、検索ランキングが上か、「いいね」の数が多いかに左右されたりしていないでしょうか。現実生活でも、実際に客観的根拠を確かめるよりも、周囲の意見の流れや、影響力のある人の言葉、人数の多い派閥、そういった人の意見に左右されたりしていないでしょうか。
イエスが来られた当時も、物事を客観的に判断する議員、聖書に基づいて判断する律法学者たちがいました。彼らは客観的に判断すべき立場にあり、今日の箇所でも客観的証拠に基づいて、イエスが信頼できないと断じているように見えます。しかし、実際に客観的事実に訴えているように見せる言葉遣いをしながら、実のところ力によって圧力をかけ、力によって事実を操作していた現実を見ることができます。
このような力こそが、聖書が教える世の力です。この力が、いつの時代にも事実を曲げ、ある人たちに不当に有利な状況を造り上げます。そして、この力がイエスを十字架につけました。この力こそ、あらゆる真実をねじ曲げる元凶であり、罪の力であり、私たちが向き合い、戦わなければならない相手なのです。
1、権力そのものが悪ではない
今日の箇所で、これから見て行くのは権力が真実をねじ曲げる構造です。しかし、聖書は決して権力を悪く見てはいません。むしろ、この世の権力、支配者は神ご自身が建てられたものであり、従うべきことが教えられているほどです(ローマ13章等)。世の中が弱肉強食にならず、公平で、正しい者が報われるために必要だからです。しかし、しばしばその力が真実を曲げ、特定の人たちに不当な利益を与えるために使われてしまいます。権力を敵視するのでも盲従するのでもなく、この点を見分け、この点を問題視することが重要なのです。
2、客観的事実に訴えるように見せかけた圧力
この箇所で、祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえるために遣わしたはずの下役が(32節)、イエスを連行してこなかったことに対する怒りをぶつけています。下役たちは、確かにイエスを捕らえるために派遣されたのですが、実際にイエスの姿を見、その態度を見、その言葉を聞いたときに、祭司長たちが言うような悪い人物には見えなかったのです。むしろ、大胆に語りながら、「自分の栄誉を求め」る姿勢がまったく見られない(18節)イエスの語り方に、下役たちは感銘を受けたほどでした。彼らが今まで聞いた演説は、聖書の教師であれ、ローマ総督であれ(ローマ皇帝の演説も聴いたことがあったかもしれません)、「自分の栄誉を求め」ずに語る人は誰もいなかったからでしょう。本人から直接聞き、事実確認するというのは、大変重要なことです。
しかし、そのような印象を受けた下役たちに対して祭司長たちは、「おまえたちまで惑わされている」と断じ(47節)、惑わされているという根拠を示します。その根拠は、一見客観的に正しく見える根拠でした。その根拠は、当時裁判官でもあった議員や聖書に精通していたパリサイ人は、(1)誰もイエスを信じていなかったこと、(2)律法(旧約聖書)を知っているならイエスが救い主ではないとわかること、(3)「ガリラヤから預言者は起こらない」という聖書的事実でした。しかし、実際はこれらの根拠は、正しそうに見えて実は偏り、操作されたものででした。
(1)議員やパリサイ人の中にイエスを信じた者はいない
もし、政治や聖書に精通していた彼らが、すべてイエスを認めなかったとすれば、確かにそれは一つの判断材料となったことでしょう。けれども、実際は彼らの中にもイエスを信じた人はいたのです。50節で反論するニコデモもまた、この時点でイエスを信じ切ったわけではなかったかもしれませんが、少なくとも「神のもとから来られた教師」であると認め(3:2)、イエスに一目置いていました。このニコデモもまた議員でした(3:1)。また、同じく議員であったアリマタヤのヨセフ(ルカ23:51)もまた、心においてはイエスの弟子でしたが、「ユダヤ人を恐れてそれを隠してい」ました(ヨハネ19:38)。12:42を見ますと、「議員たちの中にもイエスを信じた者が多くい」ましたが、「会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかっ」たことがわかります。当時、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)から追放されるということは、ユダヤ民族・ユダヤ人社会から切り離されることと等しかったからです。ユダヤ人社会が神の民と信じる彼らにとって、それは死刑宣告に近いものだったに違いありません。ですから、「議員やパリサイ人の中にイエスを信じた者はいな」かったのではなく、信じても告白できないように圧力を掛けていたのが事実なのです。このように祭司長たちは、客観的な事実に訴えているよう見せかけて、その事実を操作していたのです。
(2)律法(旧約聖書)を知っていればイエスを信じない
次に、祭司長、パリサイ人立ちは、「律法を知らないこの群衆はのろわれている」と言い捨てます。律法とは、旧約聖書の呼称の一つでもあります。確かに旧約聖書の預言には、ガリラヤ地方から救い主がでるとは書かれていません。しかし、ここにも実はトリックが隠されています。まず、彼らは聖書から根拠を示すより先に、「律法を知らないこの群衆はのろわれている」と言い放ちます。つまり、下役たちに対して、あなたもイエスを信じるならば、のろわれた群衆と同じだ、同じだと見なす、と脅しをかけているのです。神を信じるユダ人にとって、聖書の教師でもあるパリサイ人たちからこう言われると、考えることさえ怖くなってしまいます。呪われたくないからです。
さらに、議員の一人であるニコデモ自身が指摘しますが、彼ら自身その「律法」を守っていませんでした。ニコデモは、「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか」と指摘します(51節)。実際に、聖書は「いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」と命じています(申命記19:15)。ところが彼らは、実際にイエスの証言も聞かず、イエスを見、その言葉を聞いた下役の言葉にも耳を傾けず、他に調査もさせず、一方的に「捕らえる」ことを決定してしまっていました(32節)。彼らこそ、律法を破っていたのです。もし、この聖書の言葉に気づいていなかったとすれば、祭司長たち、パリサイ人たちこそ「律法を知らない」者たちということになります。彼らは、「律法」という言葉を使いつつ、実際は聖書に従っていたのではなく、自分たちのしたいように事実を操作するために、聖書の一部を利用していただけだったのです。
聖書は、このように自分の正当性を主張するために、一部分を切り取って使ってはなりません。科学的データでも、都合の悪いデータを除外する科学者は、科学的な判断に基づいて行動していません。なおさら聖書を信じるというならば、都合の悪い箇所もすべて受け入れる必要があります。(このような意味では、聖書はイスラエル人の罪や間違い、問題点をこれでもかというほど記しています。この点だけを見ても、聖書は客観的であり、信頼できる書だと言えます。世の中のほとんどすべての歴史書、宗教書は自分たちに都合の良いことを載せ、都合の悪いことは載せないからです)。
(3)ガリラヤから預言者は起こらない
確かに、聖書の預言を見ると、ガリラヤから預言者が出ないことは事実のように思えます。とは言ってもイザヤ9章を見ると、ガリラヤが真っ先に救い主の光を受けることが記されています。何より、イエスはガリラヤで育ちはしましたが、生まれはベツレヘムでした(ルカ2:4~7)。少なくとも、マリアやヨセフの本籍地を調べでもすれば、イエスがベツレヘムで生まれたことは容易にわかったはずです。しかし、祭司長たちは、「ガリラヤから預言者は起こらない」かどうかを調べなさいと命じますが、イエスが本当にガリラヤ生まれかどうか調べよとは言わないのです。それどころか、「あなたもガリラヤの出なのか」とニコデモに言います。当時、ガリラヤ地方は、田舎であるのと同時に異邦人との混血が多く、イスラエル人の中でも蔑まれた地方でした。もし、これ以上ニコデモが発言すれば、あなたもガリラヤ人の仲間だと見なすぞ、という言外の脅しがここにあります。実際にはガリラヤ人でなくとも、イエスがそうであったように、祭司長たちやパリサイ人たちに、ニコデモはガリラヤ人だと言われれば、その影響力は非常に大きかったでしょう。実際に、この言葉がとどめとなり、ニコデモはこれ以上意見が言えなくなりました。祭司長たちは、議員であるニコデモとも客観的事実を見当する義論をせず、むしろ脅しによってニコデモの口を封じてしまったのです。
3、世の力に惑わされず証言に耳を傾ける
このように当時の祭司長たちやパリサイ人たちは、客観的証拠、聖書、分別のある専門家の意見から事実を見極めているように見せながら、実のところ印象操作、権力、話術等によって事実を歪曲して見せていました。現代も私たちは、様々な客観的証拠や専門家の意見、科学、聖書などから判断しているように思っていても、実際は、様々な力によってゆがめられていることが少なくありません。また、自分の願望が無意識に情報を取捨選択し、自分の都合の良い情報ばかりを継ぎ合わせて、現実と向き合わないこともあります。クリスチャンも、聖書的、信仰的、霊的という言葉を使いながら、実際は自分の願望を正当化するために聖書を利用してしまうこともあります。教会にとって都合が良いという理由で、聖書的でないことを信仰と呼んでしまうこともあります。これもまた、信仰という名を借りたこの世の力と言わなければなりません。当時の祭司長たち、律法学者たちも、聖書の律法をかかげながら、実際には聖書の律法を守らず、律法を自分たちの願望のために都合良く利用していたのです。このようなこの世の力こそ罪であり、私たちはこの罪と戦わなければならないのです。
ですから、私たちはこのような影響を見極め、避けて、直接的な証言に耳を傾けることが重要です。ニコデモが、「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしない」と言ったように、私たちも、ネットや流行の情報を鵜呑みにせず、おおもとの情報を確認できなければ、その情報に重きをおかないようにする必要があります。可能ならば、直接当事者の証言に耳を傾けることが重要です。そして、何より聖書そのものの証言に耳を傾けることが重要です。その時には、様々な思い込みや自分の願望、この世の力関係を一旦わきに置くことが重要です。聖書を信じているクリスチャンの場合でも、聖書以前に前提となっている思想に影響されている場合があります。また、自分の願望が邪魔をして、自分にとって都合の悪い箇所から目を背けたり、聖書の本意を見落としたりすることがあります。
ですから、納得出来てもできなくても、自分に都合良くても都合がわるくても、聖書そのもの、聖書に記されているイエスご自身が何と言っているのか、そこに耳を傾ける。そのときに神が教える真実に立つことができるのです。この真理が、私たちの歩みを確かにし、永遠のいのちの道を歩ませてくれるのです。
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