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みことばの糧1

「しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。 明らかにされるものはみな光だからです。」エペソ人への手紙5:13~14a

この言葉は、非常に大胆です。「暗闇のわざ」(11節)でさえ、「明らかにされ」れば「光」だと言っているからです。
「暗闇のわざ」が光になるとは信じがたいことです。しかし実際に、自分の良い所を見てもらった方が良いと思いがちですが、他の人からすれば、意外と人の成功談よりも失敗談の方が励まされたりするものです。聖書も大変厳粛な神の聖さが書かれていますが、それと同時に信仰の父と呼ばれるアブラハムの失敗や、信仰の英雄であるダビデの醜い罪に至るまで、聖書は赤裸々に伝えています。イスラエル人の立場に立てば、自分たちの代表的な先祖の汚点は隠したいものです。そのような自分物の汚点が記されれば、神が貶められるように思うはずです。それにもかかわらず、聖書は、模範的と思われる人物の失敗や罪を少しも隠さず「明らか」にします。
けれども、そのおかげで今、私たちは励ましを受けるのです。どれほど大きな罪や失敗を犯しても、神は常に悔い改める者に憐み深く、その経験さえも成長のために用いてくださることを教えられます。確かに、自分の弱い点、悪い点に光が当てられることは大変辛いことです。けれども、キリストはその罪を私の替わりに背負い、十字架で罰を受けてくださいました。その救いに頼る時、私たちは励ましを得て、御言葉の光で自分の内側を吟味し、照らすことが出来ます。そのために醜い部分が明らかになるかも知れません。けれども、そのように聖書の光に照らされたとき、神は私たちの汚点さえも「光」としてくださるのです。その光は、周囲の人をも照らすのです。アブラハムの失敗やダビデの罪が今の私たちに、悔い改める励ましを与えるのと同じように。聖書の言葉によって自分の内側を吟味するところに光と幸いがあるのです。