カテゴリー

みことばの糧15

2022年9月4日

自分の役割を果たせる機会と幸い

私の様子や私が何をしていすでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。

ヨハネの福音書4:36~37

人の生きる価値を神が備えてくださっている

 人間は、口から入る食料だけでは生きていけません。生きる意味が満たされなければ、肉体は生きていても、人間として生きる価値が失われてしまうからです。イエス・キリストは、空腹、渇き、疲れの中で「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」と言われました(32節)。それは、「わたしを遣わされた方」つまり、父なる神がキリストに行うように示された「みこころを行い、そのわざを成し遂げること」でした(34節)。たとえ今、空腹でも、渇いていても、疲れていても、この世に生を与えられた目的を全うできる。しかも、その「みこころ」を成し遂げることで、生きる意味を見失い、人目を忍んで苦しみながら生きていた女性が救われたのです。さらに、その女性を通してさらに、多くのサマリア人が救われ、喜びを見出すようになっていきました(4:39~42)。神が与えられた「みこころ」を行うならば、多くの人の人生を豊かないのちへと向かわせるために用いていただけるのです。というのは、良かれと思ってしたことが、裏目に出ることが多いからです。とくに、自分たちのグループに引き入れようという思いが邪魔をします。しかし、イエスが民族の敵対意識を超えて、サマリア人を導かれたように、神は私たちの利己心を超えて、人を導くことがおできになります。その方の「みこころ」を行うことほど幸いな事はありません。

イエス・キリストは、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(20:21)と言っておられます。そして、その「みこころ」を行う時に、実を結ぶことを約束してくださっているのです(15:16, 5)。私たちも、イエス・キリストのように「みこころ」を行うことができるのです。遣わしてくださった方が、その時、場所、タイミングを備え、必要な力も与えていてくださるからです。

自分が知らないところで積み重ねられた労苦の価値

 しかし、クリスチャンでさえ、今のこの時、この場所、この状況、この自分の状態では、「みこころ」を行うことはできない。自分などとても役に立てそうがない。自分にはその能力がない。そう思ってしまうことが少なくないのです。あるいは、自分の出番は、もっと状況が良くなってから。この条件がクリアできたら。そのように思ってしまいます。そのような思いを抱く私たちにイエス様は次のように問いかけます。『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と。しかし「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」。これが現実だとイエス様は言われるのです。
 なぜ、私たちは、イエス様のように見ることができなのでしょうか。勘違いしてしまうのでしょうか。その原因の一つは、「刈り入れ」に必要な働きは、すべて自分だけで成し遂げなければならないと考えてしまうからです。農作業にたとえるなら種まきから刈り入れまで、すべて自分でしなければならない。そう考えると、まだ芽が出ていない、まだ育っていない、時は来ていないと見えてしまうのです。しかし、イエス様はこのように言われます。「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」と。実際、イエス様ご自身、サマリアの女性を導くことができたのは、(人間としては)ご自分一人の働きではありませんでした。モーセが律法を与え、サマリア人の先祖が場所は間違っていても礼拝の重要性を固守し、メシヤの来臨に期待を寄せていた。そして、律法にかなわない結婚が罪であることも律法によって教えられていた。そのようなすべてがあったからこそ、彼女は罪の自覚を持ちつつ、救い主に期待をかけていたのです。勿論、そこには様々な間違いも含まれていました。しかし、間違いをも含めて、確かにそこに必要な「労苦」が千年以上積み重ねられ、イエスが「みこころ」が行う「みこころ」が実を結ぶための土台ができていたのです。そして、イエスが彼女の秘密をしっておられ、なお、まことの礼拝に招かれたときに、彼女は救いに導かれたのです。律法や、罪の自覚や、間違いを含んではいても救い主への待望がない状態で、イエス様が同じ言葉を語っても、きっとイエスを救い主と信じることはできなかったでしょう。
 同じように、イエス・キリストが私たちを遣わしておられる以上、私たちが気づく、気づかないにかかわらず、「ほかの者たちが労苦」した働きが私たちの身の周りに確実にあるのです。多くの場合、それは私たちがキリストに従って、福音に従い、証しし、伝道したときに、初めてわかるものです。あるいは、さらに何年もたってからわかることもあります。しかし、私たちが気づかなくても確かに、労苦はあり、「刈り入れ」を待っている畑がそこにあることは間違いのないことなのです。それが、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」という言葉なのです。この世の仕事でも、自分だけでゼロから最後まで成し遂げる仕事は、ほとんどないと言って良いと思います。たとえ自営業だとしても、様々な形で先人の恩恵や、仕入れ品を造る労苦など、他人の労苦が背後にあることは間違いありません。私たちは、その背後にあるものが見えないとしても、確かにあることを覚えるべきです。とくに神の「みこころ」を行うとき、今までばらばらだった「労苦」の結果が一つの目的に向かって、驚く程不思議な形で結びあわされていくのです。サマリア人の女性の救いは、まさにその結晶でした。

 
 ですから、私たちは言い訳せず、自分の目には時が良くても悪くても、背後に主にある「労苦」が積み重ねられている事実に信仰の目を向けるべきなのです。自分とは直接関わりのない人の「労苦」も含めてです。ユダヤ人にとって、サマリア人が敵に見えていたように、ときには自分にとって対立するような人たちの「労苦」でさえ、必要なものであったりするのです(参考ピリピ1:18)。ここに目を向けるとき、確かに「色づいて、刈り入れるばかりになって」いるのです。

神の「みこころ」を行うことは共有できる喜びを生み出す

 あるいは、自分自身の働きが、やがて他の人が刈り入れるための「労苦」であるかもしれません。そうであっても無駄ではなく、役に立てるのです。だから、今結果が見えなくとも、神に従って行う「労苦」には、決して無駄がありません。そして、「刈り取り」の時が来たときには、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」ことができるのです。サマリア人とユダヤ人の人間的な思いは、対立を生みました。しかし、神がご計画された神の「みこころ」に従った時、ユダヤ人もサマリア人もともに喜べたのです。神の「みこころ」は、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」ことなのです。ここにこそ、私が生かされる価値があり、しかもそれが一致と平和を生み出すことができる。こんな幸いなことはないのです。

 だからこそ、「自分たちが労苦したのでないものを刈り入れる」ことの素晴らしさに目を留めようではありませんか(38節)。そして、他の人が刈り取るために「自分たちが労苦」することを喜ぼうではありませんか。ここにこそ、神が備えてくださった、素晴らしい人の生きる価値があるからです。空しくない、永続する喜びがあるからです。