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みことばの糧37

2023年2月19日

救いに必要なものは神が備えてくださる ~だからこそ御言葉に従うところに真の解決がある~

ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。

ヨハネの福音書6:3~5

 前回、五千人の給食は、なすべき正しいことを行う時、とくに神の御言葉に従うとき、私たちの持てるものをもって、神ご自身が成し遂げてくださることを見ました(みことばの糧36)。イエスのことばに従ったために、帰りの食料を失った人たち。イエスがその必要を満たそうと考えたとき、弟子のピリポは、手持ちの金額とそのお金でパン屋で買えるパンの量を見積もり、不可能だと結論づけました。しかし、イエスは、そこにあった五つのパンと二匹の魚を感謝して受け、用い、配った時に、必要を十二分に満たし、さらに12かご余ったのです。

 この出来事は、今も私たちが聖書に記された神の御言葉に従う時に、持てるもので必要が満たされる真理を教えています。しかし、この五千人の給食でとくに重要なのは、人が神に対する罪から救われることにおいてです。ヨハネは、五千人の給食が「ユダヤ人の祭りである過越」間近であったことを記します。これは単なる時期を表しているのではなく、この出来事が過越と重要な関わりを持っていたからです。また、6章の後半でイエスご自身がいのちのパンであると教えていることでも、五千人の給食が神の救いを現していることを示しています(35節)。

1、まことの過越 ~罪からの救い~

 この出来事は、過越の祭り間近に行われました。過越とは、かつてエジプトの奴隷だったイスラエルが、神によって救い出されたできごとを記念する祭りです。とくに、イスラエルがエジプトを出る前夜、神のことばどおり小羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗りました。その夜、エジプト中の長男が死にました。神の裁きが下ったからです。人は、皆神の御前には、罪汚れをいっぱい抱えているからです。それはイスラエル人でも例外ではありません。しかし、神のことばに従って、門柱と鴨居に小羊の血を塗った人の家だけは、滅びから救われました(出エジプト12章)。小羊が、彼らの罪の身代わりとなったからです。しかし、動物の小羊は、本当の身代わりにはなれません(参考ヘブル9:9)。しかし、やがてイエスは、人の前にも神の御前にも罪をまったく犯していないにも関わらず、十字架で血を流して死なれます。実は、このイエスこそまことの過越の小羊だったのです(Ⅰコリント5:7)。

 つまりイエス・キリストこそ、まことの過越の小羊である。イエスの十字架は、私の罪の身代わりである。この事実を御言葉によって信じ、その罪の道から立ち返ることを決心するときに、神はその人を刑罰から救い出される。かつて神のことばに従って門柱と鴨居に小羊の血を塗った家にだけ、神の怒り、神の滅びが過ぎ越したように、イエス・キリストの十字架を自分のためと信じる者だけ、神の怒り、神の刑罰が過ぎ越す。このことを五千人の給食は、示しているのです。私たちの罪を贖うために必要な代償は、私たちの行いではとても足りません。けれども、贖いの小羊を神ご自身が備えてくださったのです。私たちは、救いのための代償は、神ご自身が備えてくださることを信じなければならない。五千人の給食は、そのことを私たちに示してくれるのです。

2、いのちのパンであるイエス・キリスト

 確かに、五千人の給食は、罪の刑罰からの救いを証しする出来事でありました。しかし、「いのちのパン」という表現は、刑罰からの救いよりももっと積極的な内容を含んでいます。生きるというのは、単に死なないことではないからです。実際、かつての過越でエジプトを脱出した民も、そこからが大変でした。水も食料もめったに見つからず、また危険も多い荒野での生活が待っていたからです。

 しかし、そこで神はマナという食料を与えられました。このマナは、白く小さなコリアンダーの種のような形状で、パンのように調理して食べることが出来ました(出エジプト16:31)。荒野での生活の間、このマナが朝露のように地に降りたわけですが、そのマナには不思議な特徴がありました。人々は、そのマナを集めるという労働をしなければなりませんでしたが、体力に自信のある者が欲張って集めても、また体力的にあるいは不器用で早く集められなかった人も、精一杯あつめると一日生きていくのに必要な分だけ集められたのです。そして、ストックしておくと虫がわいて、腐ってしまうので、毎日集めなければなりませんでした。しかし、安息日前だけは、2倍集めることができ、安息日だけはストックしておいたマナに、虫もわかず、腐りもしませんでした。神が毎日集めること、安息日前には二日分集めること、安息日には集めてはならないことを命じておられたからです(出エジプト16:16~30)。つまり、神のことばに従い、自分に与えられた仕事を精一杯した時に、生きて行くために必要充分が満たされたのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は(神)の御口から出るすべてのことばで生きる」という有名なことば(申命記8:3)は、この出来事を通して語られたことばです。決して、心が満たされるというような精神面だけの話しではありません。仕事、衣食住、健康、人間関係といったこの世のすべての必要において、神のことばに従うことが最も重要、必要不可欠であることを示すために語られたことばなのです。

 同じように、五千人の給食でも、イエスのもとで持てるもので精一杯用い、配り、働いたときに神ご自身が必要をもたしてくださいました。つまりイエスを信じて、聖書に従う時に、私たちが生きて行くために必要なものは、すべて満たされていく。だからこそ、イエスは、ご自分を「いのちのパン」だと教えられたのです。

3、出エジプト、五千人の給食において働かれた神が今も生きて働く

 今も、神を信じようとするときに、この世は荒野です。聖書のことばを信じ、従った方が不都合に見える時があります。かえって問題が大きくなりそうに見えます。しかし、それはピリポが手持ちのお金で、パン屋で買える量しか見積もらなかったように、神のみわざを見積もりに入れていないからに他なりません。だからこそ、人はさまざまな偽り、欺き、誇張、欺瞞に汚れていくのです。そして、その罪の故に、やがて神からの刑罰を受けるしかなく、それを避けることはできません。しかし、神のことばに従う時に、神ご自身が成し遂げてくださる。確かに、一時的には問題が起こるかも知れません。出エジプトの時も、神のことばそそのままエジプト王ファラオに伝えたとき、かえって苦役を増やされました(出エジプト5章)。藁なしでレンガを作り、今までと同じ納期で納めよと命じられたのです。それは本当に過酷でした。かえって状況が悪化しました。しかし、最終的には、一人の犠牲者も出さず、争いもせずに、王の命令によって老若男女の別なく脱出できたのです(出エジプト12:31)。同じように今も、神のことば、すなわち聖書のことばに従って生きる時に、神は私たちの持ち物や、行いを用いて必要を満たし、義の実を結ばせてくださるのです。五つのパンと二匹魚を差し出した少年のように、神のためにも人のためにも、とくに人のいのちのために役立つ、生きている価値・人生の輝きを放つことができるのです。

4、いのちのパンであるキリストのことばによって生きる

 聖書のことばには、神を愛し、隣人を愛するための様々な教えが記されています。神を第一にすること、隣人を自分のように愛し、両親を敬い、互いに真実を語り、貞節を保ち、隣人の存在・持ち物を尊び、与えられたもので満足していく(出エジプト20章1~17、エペソ4:26~5:21、ヘブル13:5等)。仕えられることよりも、仕えることに価値を見出していく(ルカ22:26、エペソ5:21~6:9等)。様々な教えがあります。それらのことばに生きることは、この世では愚かに見えるかも知れません。確かに、この世の関係だけで完結するのであれば、不可能なのかもしれません。しかし、私たちが御言葉を信じ、そこに生きるところに人間の本当の価値、幸いがあると信じ、そこに生きて行く。そうするならば、神ご自身が必要を満たし、成し遂げ、結果を導き出してくださるのです。自分が認められるためにこれらの行いをするところに、いのちはありません。そうではなく私たち罪の身代わりとなるために十字架にかかってくださった方を信じ、御言葉にこそ幸いがあると信じ、みことばに従う者の必要を満たしてくださることを信じて、そのことばに生きて行く。そこにいのちがあるのです。

 ですから、五つのパンと二匹の魚という持てるもので、すべてを十二分に満たすことの出来る方がおられること。その方こそ、救い主イエスであること。その方を信じ、そのことばに従って歩むところにこそ、人間が人間として生きるために最も必要なものがあること、「いのちのパン」であることを信じて頂きたいのです。すでに信じておられる方も、この世で生きて行く時に、教会は教会、この世はこの世と分けてしまう誘惑があります。神ご自身のことばよりも、この世の富、人間関係、流行、力、魅力がものを言うように感じてしまうかも知れません。しかし、その時にもう一度、この五千人の給食を思い返して頂きたいのです。神の御心を成し遂げるために本当に必要なものは、何であったかを。たとえ、様々な行い、技術、人間関係を用いたとしても、最終的にことを成し遂げるのは、神ご自身です。神のことばに従う以上に、ことを成し遂げる、必要を満たすものはないのです。むしろ、自分自身は弱く、力がなく、不足ばかりと思えても、神はそのような私たちさえも用いて、大きな価値ある働きを成し遂げてくださるのです。