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みことばの糧47

2023年5月28日

聖霊による心の一新 ~キリストによる救いは動機そのものを聖めてくださる~

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。エレミヤ31:32

 この世には、様々な厳しいルールがあります。それは、細かく、厳しく定められなければ、人間は自己中心的になり、人に損害を及ぼし、道を曲げてしまうからです。昨今、交通違反が厳罰化傾向にあるのは、まさにこのためです。すべての人が、自分より隣人の立場を考え、判断できれば多くのルールや罰則は必要ありません。ですから、この世で様々な悲しい問題、事件、苦しみが引き起こされるのは、人間の動機そのものが歪んでいるからです。また、ルールが細かくなり、窮屈になるのも、人間の動機の歪み(罪の性質)が原因です。そのため、ルールを厳しくしても、厳罰化しても、根本的な解決には至りません。厳罰化をしても、人の動機を変える事は、できないからです。しかし、イエス・キリストによる救いは、この動機そのものを聖めてくださるのです。人を、脅しや、束縛によって強制するのではありません。賞罰によって操るのでもありません。私たちの心を変え、私たち自身の意志で、神の祝福の内を歩める。そのような道を開いてくださったのです。それが、このエレミヤ31:31に預言されている約束なのです。

1、我が子を懲らしめる神の愛

 この預言がなされたエレミヤ31章は、神の刑罰を受けたイスラエル人への神の慰めと愛の言葉として書かれた箇所です。この世で最も悲しいことの一つは、子が親の愛を理解出来ない時があることです。あるいは、部下が上司の、後輩が先輩の、弟子が師の愛を理解できないことがあることです。イスラエル人もまた、自分たちを懲らしめる神の愛が理解出来ませんでした(18節)。18節では、イスラエル人の苦しみは、「くびきに慣れない子牛のように」と言い表されています。「くびき」は、家畜に農作業をさせるときに首につける道具ですが、「子牛」は、主人が「くびき」を操作して指示を伝えてもよくわからないので、間違った動きをして「懲らしめ」られます。しかし、最初の内は慣れないのでなぜ叱られたのか、なぜ「懲らしめ」られるの理解出来ません。同じように人間も幼い時や経験が浅い内は、叱られたことが理解出来ず、自分の方が正しいかのように感じ、反発してしまうものです。神は、イスラエルに(北王国、南王国双方に)、再三再四預言者を送って悔い改めを勧め、祝福の道を歩めるようにと招いてきました。民はそれを好まず、預言者の言葉を嫌い、ますます堕落して来ました。それでも、神はすぐに裁くことなく、忍耐を持って民を導き続けました。それでも彼らは、神の愛を理解せず、神の愛の手をはねのけ、不道徳に陥り、異国に憧れて偶像崇拝に陥り、空しく、悪い道へと墜ちていきました。そのために神はついに、両王国を滅ぼし、北王国はアッシリヤによって捕らえ移されるようにし、南王国もバビロンによって捕囚としてしまったのです。

民の苦しみをともに苦しむ神の愛

 自分の国を失い、他民族の土地でしもべとして生きなければならない。それは、イスラエル人にとって大変な苦痛でした。しかし、神は決して冷たい心で、彼らを懲らしめられたわけではありません。「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──」(20節)(エフライムは、イスラエルの一部族)。確かに、彼らを苦しめ、懲らしめたのは神ご自身です。しかし、神は彼らを懲らしめ、見捨てたように振る舞いつつ、彼らを忘れることは一時もなく、彼らの痛みをまるでご自分の痛みのようにして、苦しみ「わなな」いておられた。神が願っておられたのは、彼らが苦しむことではなく、彼らが自分の罪を理解し、立ち返り、祝福の道を歩めるようになることだったのです。そのためには、懲らしめが必要でしたが、神は彼らの苦しみを片時も忘れることなく、心を痛め、彼らを苦しみか癒やす時を切に願っておられたのです。ここに神の愛があります。

私たちのために苦しむ神の愛

 現代は、自己中心的な親も増え、子のための懲らしめと言いつつ、自分の欲のために子を利用したり、不満をそのまま子にぶつけてしまうことが増えています。そして、子どもも厳しさの中にこそ、親の愛があることを理解出来ないことが以前にまして増えています。それは、親自身に愛が欠けていたり、子のためと思いつつ的外れになってしまったりすることも原因ではあるでしょう。親としても悔い改めの必要性を常に覚えます。しかし、神は、人間とは違います。イスラエルの国が滅びて民が捕囚とされることは、むしろイスラエルの神と呼ばれてきたご神自身の不名誉でもあります。それでもなお、神はイスラエルを愛し、苦しみをもって彼らを懲らしめました。私たちは、この神の愛に目を留める必要があります。聖書が、人間の様々な欠点、間違い、罪を示すのは、私たちへの愛です。クリスチャンは、時々このような神の厳しさを、新約聖書とは関係ないと無視してしまうことがあります。しかし、それは神の愛のとても大切な部分を拒否してしまうことでもあります。むしろ、今の私たちは、イスラエルほどの厳しい罰を受けていません。数十年にもわたって懲らしめを受けたのは、イスラエル人です。私たちは彼らの苦しみを通して、神の愛を知るようにされています。それは、私たちへの神のすばらしい恵みでもあります。ですから、私たちは聖書が記す厳しい言葉、罪を責めることば、悔い改めを迫る言葉にも目を留めなければなりません。聖書は、その厳しい言葉は、神が私たちを倒すためではないことを教えてくれます。むしろ、私たちの苦しみを理解し、私たちの痛みを担いつつ、罪を示してくださる。それは、私たちを罪から救いたい。罪の呪いから救い、祝福の内に回復させたい。そう願う、神の深い愛の表れなのです。私たちは、懲らしめに示された神の愛を信じる必要があるのです。

 そして、私たちが自分の罪を悔いたときに、神が与えてくださる救いが、冒頭の31節の言葉なのです。

2、動機そのものを聖める神のみわざ

 神は、イスラエルをご自分の民とする契約を結び、神の子どもとして素晴らしい立場と祝福を頂ける特権をお与えになりました。神は、この契約に常に誠実でした。民が律法通りに歩めなかったとしても、悔い改めるならば常に赦しと、回復の道を備えていてくださいました(レビ:14~45等、参考Ⅰ列王記8:33以降)。

 しかし、神は常に契約に忠実でいてくださいましたが、民は違いました。「わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った」のです(32節)。神は、民を幸せにするために素晴らしい契約を結んでくださいました。神の民としての特権と愛を注いでくださいました。けれども、民の心が「契約」を守れなかったのです。人間の心自体が、神の「律法」を喜ばず、「律法」に逆らう思いがわいてしまうからです。

 ですから、神は民が二度と苦しまなくても良いように、救いの道を開いてくださいました。それが「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という方法でした(32節)。人の心自体に、律法にかなう願いを書き入れてくださる。そうするならば、人は強制されたり、脅されたり、おだてられる必要もなく、自分から喜んで正しい生き方、神と隣人を愛し、信頼する生き方ができるようになる。そうすれば、二度と契約が破られる事がなく、民を苦しめる必要もない。神は、このような救いの道を開いてくださったのです。神は、それ程まで私たちを愛してくださったのです。

 そして、この救いはキリスト昇天の10日後に起きました。イエス・キリストを信じる者すべてに聖霊が降ったのです。『聖霊』といっても『精霊』ではありません。聖霊とは、聖なる霊、神ご自身の霊です。つまり、神の霊、神ご自身の心を人間の心に住まわせてくださったのです。この聖霊の働きによって、人間は自分から神に喜ばれる、正しい行いを求め、選択できるようにある。外から強制されなくても、自主的に、喜んで行えるようになる。そのような救いを与えてくださったのです。

 とは言え、今のクリスチャンが、完全に神に従えるわけではありません。クリスチャンであってもしばしば自己中心的な思いがわいてきますし、そちらの思いに従ってしまいます。しかし、それでもなお聖霊の働きは、顕著です。クリスチャンは、自分の国の神でもない、聖書の神を自分の神として信じています。そして、聖書がどれほど私たちの罪を示しても、その神を愛しています。イスラエル人、ユダヤ人でさえなかなかできなかったことを、イスラエル人でもない外国人ができている。それは、クリスチャンがイスラエル人より優れているからではありません。神が、私たちのような異邦人にさえも、聖霊をくださったからです。今は、イエス・キリストを救い主として信じる者すべてに、神は聖霊を住まわせてくださいます。ここにこそ、人類が最も必要とする救いがあるのです。

3、完全の救いを待ち望む

 しかし、だからと言ってこのエレミヤ31章31~34節の言葉が完全に成就されたわけではありません。34節では、「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ」と言っています。確かに、今の多くのクリスチャンは、強制されなくても自分から神を信じますし、従おうとします。しかし、だからといって「教え」てもらう必要がまったくないかというと、それも違います。聖書を見ますと、初代教会のクリスチャンでさえ、使徒の叱責と教えを受けなければなりませんでした(Ⅰコリント4:14~21等)。今のクリスチャンもまた、神の「懲らしめ」を受けます(Ⅰコリント11:32等)。

 ですから、私たちは神の「懲らしめ」が神の深い愛によるものであること、私たちを苦しめるためではなく、むしろ本当の最終的刑罰を受けないですむためであることに目を留めるべきなのです(Ⅰコリント11:32等)。そして、神はやがてこのエレミヤ31:31~34の言葉を完全に成就させてくださいます。キリストが再臨され、私たちのからだを御霊のからだへと変えてくださるならば、私たちの心は、まったく「聖霊」と一つとなり、自由に、喜んで神の子として生きられるようになるのです。そうなれば、もう病も災害も呪いもありません。刑罰も恐れる必要がありません。このような救いを神は、私たちに約束してくださっているのです。

 ですから、まず神の懲らしめに耳を傾け、受け入れて頂きたいのです。そして、その罪から救うために、そして、私たちの心に律法を書き記し、動機を聖めるために、キリストを送ってくださったことを信じて頂きたいのです。それを信じるならば、神はあなたにも聖霊を住まわせてくださいます。そして、やがて神は完全な救いを成し遂げてくださる、そこに希望を置いて頂きたいのです。そこに希望を置き、神の懲らしめを愛として受け止めるならば、私たちは今の人生においても、祝福の内を歩むことが出来ます。制度やルールは必要ですが、本当の根本的解決には無力です。どれだけ良い制度を作っても厳罰化しても、人の心が変わらない以上本当の解決はありません。私たちの心に「律法を記」してくださる、この神の聖霊による救いこそ、私たちを根本的に救い、幸いを与える、最高の希望なのです。